「正反対な二人」
〜 トルコ サフランボル 〜

「・・・情報ノートに数字を書き込むときには必ず『漢数字』を使うのよ。そうすれば何が書いてあるのか宿の従業員にバレることはないはずだから。」

 と、彼女は僕に向かって言い

「・・・考えてみますよ。」

 僕はそう彼女に答えた。

僕が彼女と出会ったのはサフランボルの中心にあるチャルシュと呼ばれる旧市街だった。ここは18世紀に建てられた民家が現在でも使用されている稀有な地域であると同時に、ユネスコの世界遺産に登録されているということもあって、パッケージツアーを利用する観光客から節約第一のバックパッカーまで、実に多くの外国人旅行者が訪れる。そしてもちろん僕もそんな旅行者のなかの一人だった。

僕はチャルシュ旧市街のとある民家にお世話になっていた。いわゆる『民泊』というやつである。この街にはその古い民家をペンションと名付け、空き部屋に旅行者を宿泊させているところが何軒かある。僕が泊っていたところにしても、自分にあてがわれた部屋の隣室ではそこの家族の人達が寝起きしているという、実にアットホームな雰囲気の宿である。

ところで僕はサフランボル滞在中、そんな宿の玄関先でよく情報ノートを読みながら暇をつぶすことが多かった。というのもサフランボルにいる間ずっと天気が悪かったので、僕はあまり出歩くことをしなかったのだ。夕食のとき以外は全く外出しないという日さえあった。(朝食は宿で出してくれたので、夕食さえ自分でどうにかすればそれで済んだ。)おまけにそのペンションには僕以外に宿泊客はいなかったから、退屈な時間をやり過ごす方法は文庫本や情報ノートを読むことぐらいしかなかったのだ。

彼女達が宿を訪ねて来たときも、ちょうど僕は情報ノートを読んでいた。もっとも彼女達は僕を訪ねてきたわけではなく、この宿の土産物が目当てだった。このペンションではサイドビジネスとして、この家の娘が作った土産物を販売しているのだが、彼女達はそれを買いに来たのである。

彼女達は(日本人女性の二人組みだった)実に奇妙な組み合わせだった。一人はわりに若い、おそらくは20代後半と思われる女性だ。しかしもうひとりの女性はどう若く見積もっても40代には見えなかった。たぶん50歳中頃というところだろう。最初は親子なのかと思ったが、でもそのあとすぐに僕はその考えが間違っているという結論に達した。

まず第一に彼女達は顔が全く似ていない。そして第二に、彼女達はそれぞれ全く違うタイプの旅行者であるように見えた。ひとりの女性はごく普通の観光客という格好である。どこの世界遺産に行っても必ず見かけるタイプの女性で、これといった特徴はない。しかしもうひとりの女性はその風貌から察するに、どう考えても僕と同じタイプの旅行者 ― すなわちバックパッカーにしか思えなかったのである。

まともなホテルに宿泊できるような旅行をする観光客と、安宿に泊まるバックパッカーが日本から一緒にやってくるとは、ちょっと考えにくい。おそらく彼女達は旅の途中で出会ったのだろう ― 僕は勝手にそう断定し、更に推測を続けた。

「なぜこのコンビは普通と逆のパターンなんだろう?」

という疑問について。



「若い女性旅行者と老齢の女性旅行者がいる。そしてひとりは普通の観光客で、もうひとりバックパッカーである。」

 もしこういうハナシを耳にしたら、たぶん大部分の人は

「若い女性がバックパッカーで、老齢の女性が普通の観光客。」

 そう考えるのが普通だと思う。でもこの二人の場合はそうじゃなかった。若い女性が普通の観光客で、老齢の女性がバックパッカーだったのである。本当に珍しいことに。僕が彼女達のことを「奇妙な組み合わせだ」と思ったのは、そういう理由からなのである。

そしてそんな理由から僕は彼女達に興味を持つようになり、宿の玄関先で彼女達が買い物をしている光景を眺めていた。どちらかというと若い女性のほうが買い物に夢中で、年輩の女性のほうはただそれに付き合っているという感じに見える。少しすると年輩の女性のほうが僕に気がつき、声をかけてきた。

「あなた日本人?それは情報ノートなのかしら?」

 そんなふうに彼女は声をかけてきた。そしてそれをきっかけにして僕達は会話をすることになったのだった。

僕達はそのとき簡単な自己紹介をお互いにしたのだが、それでわかったことは彼女が根っからのバックパッカーであるということだった。もう過去に何度もバックパックを背負う旅を、主に東南アジアで経験しているのだそうだ。旅の経験から言えば、僕なんかよりずっと先輩ということになる。今回の旅はまだイスタンブールから始めたばかりだが、陸路でのアジア横断を目指すという。

トルコからイラン、そしてパキスタン・インド・バングラデシュ・・・ミャンマーだけは陸路で通り抜けることができないので、そこだけは飛行機を使うことになるが、基本的には国境を越え続けてタイまで行くのだそうだ。ちょうど僕とは反対のルートになるわけだが、それにしてももう「おばあちゃん」と呼ばれてもおかしくないような年齢の女性がたった一人でそういう旅をしようとしてしていることに、僕はただただ驚いた。だから僕は

「女性の一人旅は大変じゃありませんか?」

 そう尋ねてみた。僕はこの旅で沢山の女性バックパッカーに会ったけれども、実はこういう質問をしたのは今回が初めてだった。いまどき海外を旅する女性のバックパッカーなんてそんなに珍しい存在でもないから、ほとんどの女性にできることなのだろうと思っていたのだ。しかし今目の前にいる女性は僕が過去に出会った女性バックパッカーよりも、ずっとずっと年齢が上である。身体だって若い頃のようには動かないだろうし、外国語に対する順応も若い人ほど早くないだろう。きっといろいろな苦労を重ねて旅してきたんじゃないかと思ったのである。しかし彼女は僕の予想とは反対に

「そんなに大変じゃないわよ。まあ確かに時々は『男の人が一緒だったらな・・・』って思うこともあるけど、でも逆に女性一人ということで得することも沢山あるのよ。もし男の人だったら助けてもらえないっていうような場面で親切にしてもらったことが今までに何度もあったわ。」

 そう答えた。なるほど。男性の一人旅にメリットとデメリットの両方があるのと同じように、女性の一人旅にも良い点と悪い点の両方があるのだろう。僕には決してできない女性ならではの旅の経験を、彼女は持っているのだ。



それから彼女は僕が読んでいた情報ノートを見たがったので、渡してあげた。彼女はそれをひととおり読んだ後、僕に向かって

「全然ダメねぇ」
 と、言った。

「何がダメなんですか?」
 彼女が何を言いたいのかわからなかったので、僕は訊き返した。

「この情報ノートの書き方よ。どの書き込みもできてないわね。」

「ノートの書き込み方?」

「そうよ。あなた宿探しするときに料金の交渉したことあるでしょ?」

「ええ・・・、だいたいいつもしてますよ。その結果値切れるかどうかは別にして。でもそれが情報ノートの書き方と何か関係があるんですか?」
 僕は言った。

「もちろんよ。その交渉がポイントなのよ。旅行者にも交渉が上手な人と下手な人がいるわけじゃない?そうすると同じ宿でもある人は安く泊まることができるけれど、別の人は高い料金でその宿に泊まるっていうことになっちゃうの。」

「そうですね。よくあるハナシです。」
 僕は相槌を打った。

「だけどね、親切な旅行者になると交渉下手な人の事を思って情報ノートに『ここはいくらで泊まれますので、必ずそこまでディスカウントさせてください。』って書いてくれるのよ。あなた情報ノートのそういう書き込み読んだことない?」

「あります」
 と、僕は答えた。確かに何度か読んだことがある。

「そういう書き込みって本当にありがたいわよね。だって交渉下手な人間でも、『前に宿泊していた人はいくらで泊まったって教えてもらった』って、言えるものね。でも残念なことに場所によっては宿のオーナーがそういう情報が書かれているページを破り捨てちゃうことがよくあるのよ。なぜそうなっちゃうのかわかる?例え日本語の文章で書いてあっても、料金の部分の記述が普段私達が使っている数字だと、オーナーには『これは宿代のことを書いているんだ』ってことが想像できちゃうのよね。それであまりディスカウントしたくないと思ってるオーナーは、情報ノートのそういうページを破り捨てちゃうの。」

「そういえばそんなハナシもどこかで聞きましたね」

「だから宿のオーナーにバレないようにするには、私達にしかわからない言葉を使うようにするのよ。外来語が必要なときにはアルファベットじゃなくてカタカナを使う。数字が必要なときはアラビア数字じゃなくて漢数字を使う。そうすれば内容が把握されることは絶対にないから。それでアタシは情報ノートに何かを書き込むときはいつもそうしてるのよ。」

 なるほど。今までに何度か情報ノートに書き込みしたことがあるけれど、僕にはそんなこと一度も思いつかなかった。さすがと言うべきかなんと言うべきかわからないけど、とにかく彼女のバックパッカーとしての知識や経験は、どうやら僕なんかとは比べ物にならないようである。



「さてと・・・、もうそろそろ行くわね。またどこかで会いましょう。」
 情報ノートについての持論を僕に説明したあと、彼女はそう言って腰を上げた。

「もう行くんですか?お連れの女性はまだ買い物してるみたいですけど。」

「うん、いいの。彼女とは30分くらい前に道で出会ったばかりで、お土産を買うのに付き合っただけ。一緒に旅してるわけじゃないのよ。それにアタシは今日この街を出るからパッキングしなきゃいけないし忙しいの。」

 彼女はいかにも、パッキングって本当に面倒よね、という表情で答えた。

「そうですか。では、お気をつけて。」

「ありがとう。それから情報ノートに数字を書き込むときは・・・」

 そう言いかけた彼女に対し僕は

「そうですね。考えてみますよ」

 笑いながらそう答えた。それから彼女は一緒にやってきた若い日本人女性とも簡単な挨拶を交わし、宿を出て行った。そして僕はその場に残されたそのもうひとりの女性とハナシをすることになった。彼女はちょうど買い物を終えたところだった。

ハナシをしてみると、彼女は予想どうりパッケージ・ツアーを利用した旅行者だった。日本でOLをしているのだが、1週間の休みを利用してトルコへやってきたという。今までヨーロッパや北米、オーストラリアを旅行したことがあるのだが、アジアは今回のトルコが初めてで現在はその二日目。非常に楽しんでいるのだそうだ。予定では日本から飛行機でイスタンブールに入り、トルコの幾つかの都市を観光バスで周り、またイスタンブールから飛行機で日本へ帰るのだという。そしてあの年輩の女性とは、さきほどツアーの自由時間に旧市街を歩いていたときに知り合ったのだと、僕に言った。

とりあえず僕達は今出て行ったばかりの女性についての話をした。

「すごいわよねえ。バスとか電車だけでトルコからバングラディシュまで行くんだって。ワタシも海外旅行は大好きだけど、さすがにそんなことにチャレンジしようとは思わないわ。ねえ、そんなことしようとしたって成功するわけないわよね?」
 彼女はそう僕に尋ねた。

「いや、できますよ。」

「本当に?本当にそう思う?」
 彼女は疑わしそうな表情で、また僕に尋ねた。

「ええ、思います。」

「それを証明できる?」

「もちろん」

 僕はそう言って、彼女に自分のパスポートを見せた。そして自分が中国の上海から旅を始めたこと、そしてトルコまで一度も飛行機を使わなかったことなどを、査証と国境で押されたスタンプを見せながら説明した。説明を聞き終えた彼女は驚いた表情で

「すごいわねえ。彼女よりすごいんじゃないの?しかしあなたみたいな人、本当にいるのねえ。」
 あきれたように彼女は言った。

「けっこういますよ。僕だけじゃありません。」

「そういう旅行ってきっとすごく楽しいんだろうね?」

「水道も電気もガスも無い宿に泊まったり、ヒッチハイクでトラックの荷台に乗らなきゃならなかったり、闇両替でだまされたり、ビザを取るのに1週間も待たされたりしたのは、楽しかったと言えば楽しかったですね。」

 そう僕が冗談を言うと、彼女はおかしそうに笑った。そして

「ビザを取るのに1週間もかかったら、それだけで休暇が終わっちゃうわ。私にはとても無理ね。」
 と、言った。

「旅行にはいろんなやり方があります。自分が好きな旅行をすればそれでいいんですよ。」
 そう僕は言った。

それから今度は僕が彼女の旅行についていろいろと質問した。彼女は今回の1週間の旅行ために日本で旅行会社に20万円以上も支払ったこと、でもそれだけの金額に見合うだけの内容の旅行で、昨日はイスタンブールで高級ホテルに宿泊し、今日は豪華な観光バスでサフランボルへと移動し、レストランで美味しい食事をしたことなどを教えてくれた。それで僕が

「そっちの旅行のほうがよっぽど楽しそうですよ。」
 と、言うと

「そうかしら?」
 と、答える。

「ええ。僕だって一度くらいは高級ホテルに泊まってみたいですから。」

「パンフレットには、『トルコ初日はイスタンブ−ルの高級ホテルに宿泊となります』って、書いてあったのよね。それで実際イスタンブールに着いてそのホテルを見たときは、確かに素敵なホテルだなって思ったのよ。でもね、そのホテルに着いたのって時差の関係で夜中の3時だったの。それで次のスケジュールは朝の6時に出発よ。結局その『高級ホテル』とやらには、たった3時間しか滞在しなかったことになるわね。本当に楽しかったわ。」

 と、彼女は笑いながら言った。どうやらパッケージ・ツアーにも僕の知らない、いろいろな種類の苦労が存在するようである。

それからも僕達はけっこう長い時間をかけてハナシをした。彼女と話すのはすごく楽しかった。実は日本人の女性とハナシをするのは僕にとってインド以来のことだったのだ。時間が経つのを忘れそうになった。

しかし話し続けて夕方くらいになると、僕は空腹を感じるようになってきた。いつも節約のために昼食を抜いているから、これくらいの時間になるとすぐお腹が減るのである。それで僕は

「もしよかったら夕食は一緒にしませんか?高級レストランとは言えないけど、この近くに安くて美味しいところを昨日見つけたんです。」
 そう言って彼女を夕食に誘ってみた。

「ありがとう。できれば私もそうしたいんだけど、でもそれはできないの。夕食はいつもツアーのメンバーと一緒に決められた場所で食べることになってるから。勝手にいなくなっちゃうと添乗員さんにも迷惑かけることになっちゃうしね。」

 彼女は僕にそうに答えた。そのときの彼女は僕に気を使うのではなく、本当に心から残念だと思っているように見えた。

旅行にはいろんなやり方があるけれど、そのうちのどの方法が正しいのか(あるいは正しくないのか)なんて議論は無意味だと思う。どんな旅行の仕方にだってメリットとデメリットの双方があるはずだ。だから僕は自分はバックパッカーだけれどもツアーを否定したりしないし、ましてや

「旅行というのはのはこういうふうにやるんだよ」

 なんて言ったりしない。そもそもそんなこと思いもしない。旅をするのにいちいち能書きなんて必要ないのだ。ただそれでも、あえてもしひとつだけ言うことが許されるとするなら、できれば女性旅行者には

「現地で男性のバックパッカーから夕食を誘われた場合には、そちらを優先されて構いません。」

 そういう融通の利くパッケージ・ツアーを選んでくれたらいいなと、個人的には切に願う。もちろん、「もしそういうパッケージ・ツアーがあったなら」、という仮定の上でのハナシだけれど・・・。


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