「戦争はいらない」
〜 トルコ トラブゾン 〜

トルコ語の「SAVASA HAYIR!」という文章を、日本語に訳すと「戦争はいらない!」という意味になる事を僕が知ることができたのは、やはり隣室に宿泊していた『彼』のおかげであった。もちろん、売春の事について詳しく教えてくれた、あの彼のことである。彼はトルコ旅行のための所持品として、日本でもなかなか購入が難しいという、「土和辞典」を携帯していたのである。

そんなモノを持ってトルコを旅している人間なんて、僕が知る限りでは彼だけだった。僕が彼に少しの間でかまわないから、「その辞典を貸してくれないか」と言うと、彼は快くオーケーしてくれた。ただ、その辞典を受け取るときに彼から

「でもまたどうして辞典なんか使いたくなったんだい?」

 と、訊かれたので、僕はその事情をかいつまんで説明することになった。



トラブゾンに着いて以来ずっと降り続いていた雨がようやく止むと、僕は「待ってました」とばかりに街歩きを始めた。すると僕は自分でも思っていた以上に、トラブゾンには自分が驚く事柄が多いということを知ることになる。この街にはムスリムの国にしては珍しくキリスト教教会が存在することに驚いたし、インド以来のマクドナルドを発見したことにも驚いたし、ささいな事だけれど『黒海』が本当に黒く見えることにも驚いた。けれどもそんなトラブゾンの街を歩いていて一番驚いたこととなると何と言っても、「あまりにも多くの人が僕に声をかけてくる」ということだった。街を歩いていると本当に様々な人が僕に向かってしょっちゅう

「リー!」「リー!」

 という感じで声をかけてくるのだが、それに対して僕はといえば

「あー、またブルース・リーか・・・。」

 と、ウンザリしながらやり過ごしていた。あんまりウンザリしすぎてロクに返事もしなかったことがほとんである。それともいうのもパキスタンに入国してからイランを出国するくらいまで、僕はもういろんなところで「ブルース・リー」とか「ジャッキー・チェン」とか言われ続け、そのたびに僕は


 第一に、僕は日本人である。

 第二に、ブルースもジャッキーも日本人ではない。

 第三に、したがって僕は二人にもカンフーにも詳しくない。



 という説明を何度も繰り返さねばならず、オマケに声のかけ方があからさまに人を小馬鹿にするような態度の人間もいたりして、要するにほとほと参っていたのである。しかしながらイランを出国してトルコに入国してからというというもの、理由はわからないが「ブルース・リー」とか「ジャッキー・チェン」とかいう声のかけられ方がパッタリと止んでいたので僕は

「おお、トルコは安心して街を歩けるじゃないか。」

 と、ここのところずっと落ち着いた街歩きを楽しむことができていたのだが、それがトラブゾンに来てみたらこの有様である。ここまでくると彼等の呼びかけを無視して歩き去りたくなるのも仕方の無いことだろうと、自分で自分を弁護したくなってくる。

実際、僕はトラブゾンに滞在していて、「リー!」というふうに呼びかけられたときは、もうそれを完全に無視していた。からかいではなく好意で挨拶してくれた人には本当に悪いとは思うけれど、僕としてはこれ以上ブルース・リーの説明に時間を費やしたくはなかったのである。

ただ無視するという対応にしても、上手くいくときといかないときがある。特に相手がヒマそうな子供達だったりすると、無視してもしつこくついてきて「リー!リー!」と騒ぎ立てることもあった。大人が声をかけてきた場合は、無視すれば大体それっきりで終わるケースがほとんどだったが、ただそのときシェヒル・メルケジの広場で僕に向かって「リー!」と声をかけてきた青年の場合には、簡単に無視することができなかった。なぜなら彼が僕に何かを渡そうとしていることに、僕が気づいたからである。



その青年は広場を歩く人に声をかけては、何かのビラを手渡していた。見るとビラを配っているのは彼だけでなく、他にも数人の同年代らしき男性がいた。彼等の背にはいかにも即席で設置したといった感じの簡易事務所のようなものがあり、その前には何かの用紙とボールペンが並べられたスチール机が幾つかあった。そして付け加えるなら、事務所には戦争に関するシニカルな雰囲気の絵が描かれたポスターが数多く貼られていて、どのポスターにも「SAVASA HAYIR!」と、大きく書かれていた。ただその文章の意味は、もちろん僕にはわからない。

そしてその青年が僕にむかって「リー!」と言いながらビラを差し出してきたとき、僕はついそのビラを受け取ってしまった。それで受け取ってしまった成り行き上、僕は彼を言葉を交わすことになったので、

「悪いけど僕はブルース・リーについてはよく知らないし、カンフーもできないんだ。」

 と、言った。すると彼は

「違うよ、カンフーのリーじゃない。『トラブゾン・スポルト』のリーのことだよ。」

 と、彼は流暢な英語で僕に答えた。そしてそう言われて初めて、僕はやっと気がついた。トラブゾンの人達が「リー!」「リー!」と、僕に声をかけてきたのはブルース・リーのことではなくて

「リー・ウルヨン(李乙容)」

 のことを言っているのだということを。



トラブゾン・スポルトはガラタサライ、ベシクタシュ、フェネルバフチェと並んでトルコリーグの4強の一角を占める強豪チームである。トルコ・サッカーのレベルは非常に高く、ガラタサライというイスタンブールのクラブはUEFAカップで優勝して、ヨーロッパ・スーパーカップの出場権を獲得。2000年に行われた同大会では当時「世界最強」と呼ばれていたヨーロッパ・チャンピオンズリーグの覇者、スペインのレアル・マドリーを破って優勝した。代表チームにしても昨年(2002年)日本で開催されたワールドカップで3位に入ってその実力を証明したように、この国のサッカーは非常に高いレベルにある。

僕は数あるスポーツ種目のなかでサッカーが一番好きという人間なので、そんなトルコのサッカーにも当然興味を持ったし、実際トルコに滞在している間には本当に沢山の試合を観戦した。といってもスタジアムに足を運んで入場券を買うような余分なお金は無かったので、いつも「ロカンタ」と呼ばれる安食堂や、宿のロビーにあるTVで試合を観戦していただけなのだが、それでも地元の男性達と一緒にTVを囲んで試合を観戦するのはなかなか楽しい経験だった。

特にトラブゾンでは雨のせいでなかなか外出できなかったこともあって、トルコの他の街に滞在していたときと比べても、かなりの試合を観戦したと思う。世界の多くの国と同じようにトルコにおいてもサッカーは最も人気のあるスポーツだから、テレビ局も多くのチームの試合を中継する。特にトラブゾン・スポルトのように人気のある強豪チームともなると、主催試合がTVで放映される機会はかなり多い。だから僕もトラブゾンの試合はけっこう観たし、そうすると自然に主要選手の名前を覚えられるようになったりもした。そしてトラブゾン・スポルトで『李乙容』という名の韓国人選手がプレーしていることを知るようになったのも、もちろんテレビ観戦からなのだが、その知識のおかげで今ここで僕は

「どうしてトラブゾンで何度も『リー!』と、声をかけられるのか?」

 という疑問についての正しい解答を手に入れることができたわけだ。ようするに彼等は僕に向かってカンフーではなくて、地元チームに所属する東洋人サッカー選手についての話題を振っていただけなのである。そして広場で出合ったこのビラ配りの青年も同じように

「『トラブゾン・スポルト』のリーのことだよ。韓国人なら知ってるだろ?」

 と、僕に尋ねているのである。そして僕はその問いに対して

「トラブゾンにそういう選手が所属していることは知ってるよ。でも僕は日本人だから、彼については名前くらいしか知らないけどね。」

 と、答えた。

「えっ? 君は韓国人じゃないのかい?」

「韓国人じゃない。日本人なんだよ。」

「そうか君は日本人だったのか。それは悪いことをしちゃったね。どうか気を悪くしないでくれ。もし君が韓国人だったら署名を頼もうと思ってさ、それで挨拶代わりに『リー!』って声をかけたんだよ。韓国人ならリーのことを知っていると思ったから。」

「署名だって?」

 彼の弁解を聞き終えてから僕は尋ねた。

「そう、署名だよ。何としてもイラクへの攻撃を止めさせなくちゃいけないからね。」

 そう言うと彼は急に真顔になって、僕への説明を始めた。



彼等は皆トラブゾンに住む大学生だった。そして彼等がこの広場でやっていることは、いわゆる『反戦運動』なのだそうだ。現在アメリカが国連決議を無視してイラクを先制攻撃するのではないかという報道が世界で駆け巡っているが、彼等はそれを阻止すべく行動しているとのこと。具体的には市民から署名を集めて政府へ提出することを目的にしているのだが、その政府に対する彼の言い分は厳しいものだった。

「トルコ政府は国民の意向を無視して、アメリカのイラク攻撃を黙認するどころか、下手をすれば支持するかもしれない。」

 というのが彼の説明である。人道的な見地から戦争にする反対という市民もいれば、「どうして同じイスラム教徒に対するアメリカの攻撃を支援しなければならないのか」、という市民もいるのだが、どちらにしても基本的には戦争反対というのが現在のトルコ国民の総意といってさしつかえない。しかしトルコ政府にはアメリカに対する支援としてトルコ国内にある基地をアメリカ軍に使用させるという動きがあるようで、当然のことながらそういう政府に国民は猛反発している。

もちろんトルコ政府もそんな国民の怒りは理解している。しかし理解していても、なお政府がアメリカ寄りの姿勢をとりたくなる理由もまた存在する。政府にもそれなりの言い分はあるのだ。実はこのトルコという国はかなり昔からEU(ヨーロッパ連合)への正式加盟を目指している。もう長年の悲願と言ってもかまわないくらいに強く目指している。しかしながら現実にはその道はかなり険しい。何故かというと表立っては口にしないが、ヨーロッパの国々の間ではいまだに

「イスラムを信用できない」

 という雰囲気が存在し、トルコをEUへ受け入れようとしない。もちろんトルコは政教分離を達成している国家ではあるのだが、それでもトルコ国民のほとんどがイスラム教徒であることから、ヨーロッパはトルコという国を完全には信用しない。だからトルコ政府としてはこの機会にアメリカに恩を売り、そのかわりアメリカにトルコのEUへの正式加盟を後押ししてもらいたいという思惑があるのだ。そういう理由で今トルコ政府はアメリカ軍に自国内にある基地の使用を認める方向に動いている。そして国民はそんな政府に対して猛反発しているというのが現在のトルコの状況であり、その猛反発のひとつの表れが、ここトラブゾンの学生達が行っているような『反戦運動』なのである。

そしてそういう理由で彼等はこの公園で市民から戦争反対の署名を集める活動をしているのだけれども、彼の説明によれば署名してくれた人間には、白い布のついたピンを胸に挿してあげているのだそうだ。『赤い羽根募金』に似たやり方である。ちなみに僕に声をかけてきたのは、ただ単純に「署名してもらいたかったから」なのだそうだ。それで彼の説明を聞き終えた僕は

「なるほどそういうことか。外国人でも署名できるんだね。」

 と、言った。

「そう、外国人でもオーケーなんだよ。それで君を見かけて声をかけたんだ。ひょっとしたら署名してくれるかしれないって思ってね。」

「そういうことなら喜んで署名するよ。」

「いいのかい?だって君は日本人なんだろう?」

「うん、日本人だよ。署名するのに日本人であることが問題になるのかい?」

「日本はアメリカと同盟を組んでいるじゃないか。アメリカがイラクを攻撃したら、日本は戦争を支持するんだろう?それでも君は署名してくれるって言うのかい?」

 そう、彼は僕に尋ねてきた。なるほど、そういうことか。それで何度も念を押して確認してきたのか。彼の意図がわかった僕は

「確かに君の言うとおり日本政府は戦争を支持するかもしれないね。でも僕個人としては国際問題の解決手段を戦争に求めるのには反対なんだ。」

 そう答えた。

「なるほど。じゃあ、署名するのに何の問題も無いんだね?」

 これが最後の確認だという表情で彼が僕に訊く。

「もちろんないさ。」

そう答えた僕は彼が用意してくれた用紙に自分の名前を書いた。用紙には沢山のトルコ市民の名前がアルファベットで記入されてあり、そんななかで漢字で書かれた僕の名前だけがひときわ目立っていた。そしてそれを見届けた彼が

「ありがとう。これしかお礼はできないけれど・・・」

 そう言いながら僕の左胸に白い布のついたピンを挿してくれ、最後にこう付け加えた。

「日本人で署名してくれたのは君が初めてだよ」

 その言葉だけで僕には充分だった。

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