「クルド人の話(前編)」
〜 トルコ ワン 〜

「数百人の農民が国境を越えようとして死んだ。俺の父も足をやられた。目に見えていても越えられない。事情を説明しても聞いてくれない。囚人は囚人なんだ。そして兄のアブゼルはゲリラになったのさ。」

 ― 国境を見つめるクルド人オメールの言葉(映画 『路』 より)



トルコ国籍のクルド人映画監督ユルマズ・ギュネイ(故人)が、クルド人の生活を描いた『路』を獄中から監督して製作しなければならなくなった理由は、クルド人に対するトルコ政府の弾圧のためである。「国家を持たない最大の民族」と呼ばれるクルド民族はイラン・イラク・トルコなどに分散しているが、なかでも最も多くのクルド人が生活しているのがトルコだ。そしてそのトルコ政府はクルド人の文化活動を禁じている。なにせクルド人が民族衣装を着用するのさえ禁じているくらいだから、映画監督であるギュネイ氏が逮捕されるのなんて、当然のなりゆきである。

僕が『路』という映画を初めて観たのは、まだ大学生の頃だったから、もうだいぶ前の事である。この重い内容の映画を観た当時の僕がどんなことを感じたのかについては、今はもう自分でもよく覚えていない。唯一覚えているのはただ、

「いつかこのあたりを旅してみたいな」

 と、思ったということだけである。映画の舞台はクルディスタン。もちろん、

「クルド人の国」

 という意味である。



僕がドウバヤジットの次に進もうと決めたのは、トルコ南東部にあるワンという街だ。この街へ行こうと思いついた理由は僕がトルコに入って、かつて『路』を観て「クルディスタンへ行ってみたい」と考えていたことを思い出したからである。ワンはクルディスタンの主要都市のひとつなのだ。だがひとくちにクルディスタンと言ってもその地域は広く、しかも国境を越えてイラン・イラク・トルコにまたがっているために様々なクルド人問題を引き起こすことになった複雑な地域でもある。

もともとクルディスタンはひとつの地域だったのだが、16世紀にオスマン帝国とペルシャ帝国の争奪戦の対象となった後に、両国の協定によって今で言うところのトルコ側とイラン側に分断された。そして更にトルコ側にいたっては20世紀に入ってからイギリスの石油戦略によって、今度はトルコ側とイラク側に分断されてしまうのだ。

つまり大国の利権のために、当人であるクルド民族の思惑は完全に無視されるかたちでクルド人の居住地域に国境線が引かれてしまったわけである。そしてその国境線のために、クルドの民族は自分達の居住地域を行き来することも、親戚に会いに行くこともできなくなってしまったわけだ。ちょうど、オメールの言葉にもあるように。

このようにクルディスタンはトルコ・イラン・イラクと三つに分断されてしまったのだが、なかでもトルコに住むクルド人の受難は続いた。トルコ政府による弾圧のためである。第一次大戦後、ヨーロッパ列強によるトルコ分割に対して、ケマル・アタチュルクがその英雄的奮戦で抵抗し、「トルコ革命」によってオスマン・トルコ帝国を廃止して「トルコ共和国」を建国したのは歴史的に有名な話である。しかしその際、オスマン皇帝も帝国が消滅していくのをただ座して見ていただけではなく、帝国存続のために一応、手を尽くしていた。何をしたのかというと、クルド人をアタチュルク率いる部隊と戦わせたのだ。

結局この戦いはアタチュルクの勝利に終わり、革命は成就して帝国は消滅したわけだが、そういう事情があったために、できたたばかりのトルコ政府(そしてトルコの民衆)はクルド民族に対して徹底的に「仕返し」をした。まあ、無理もない。アタチュルクがクルドに敗れていたら、今のトルコは無かったのだから。

その仕返しというのはつまり弾圧のことなのだが、この弾圧があまりに苛烈であったために、クルド人も当然のように抵抗し、ついには武力闘争にまで発展する。多くのクルドの男達がそれに参加した。これもまさしく映画に出てくるオメールの兄、アブゼルのように。

今でこそトルコ政府に対する武力闘争は停戦協定により行われていない(ことになっている)けれど、それでもワンへの道中、僕はかつてこのあたりでゲリラが治安部隊を相手に活動していたことを感じさせられる事があった。国境のドウバヤジットからワンまではバスの路線が無かったため、僕はドルムシュを利用することになったのだが、クルマがワンに到着するまでに、何度も何度もそれを経験させられることになったのである。



僕がワンに到着するまでに何度も経験した事というのは、実は『検問』なのである。国内移動なのに何度も『検問』に引っかかったのだ。ガイドブックによれば、これは「クルド人が起こすテロへの対策のひとつ」らしいのだが、こんなことが行われているのは広いトルコといえどもクルディスタン地方だけである。検問で僕達に要求される事は単純な身分証明で、トルコ国籍の人間は普通「IDカード」を持っているので、それを見せれば簡単に事は済む。しかし外国人の場合はもちろんトルコの「IDカード」なんか持っていないので、そうなるとパスポートを見せるしかない。

まあそれでも普通の観光客の場合はパスポートを見せさえすれば大体問題ないのだが、残念なことに僕のパスポートにはイランから国境越えしてきた事を示すスタンプが押されている。そうなると少々厄介なことになる。もちろん僕はクルド人じゃないから親戚に会うために違法に国境を越えてきたわけじゃないし、自分が思いつく限りでは何も悪いことはしていないと思うんだけど、やっぱり治安部隊からいろいろと質問されることになるわけだ。面倒なことに。

そんな検問を幾つも通過して到着したのがワンの街である。クルディスタン地方の主要都市だけあって、

「クルド人の住民が多い」

  ― そうガイドブックに書いてあったから、さぞかしクルドらしい街なのだろうと想像していたのだが、実際に来てみると、全然そんな街ではなかった。ドウバヤジットより大きな市場があって、ドウバヤジットより大きなモスクがあって、ドウバヤジットより多くの両替屋とバス会社があるだけである。「ドウバヤジットをコピーして拡大したらこうなった」  ― 僕にはそんなふうにしか見えなかった。包み隠さず言えば、特に魅力的な街だとは思えないというのが、僕の率直な感想だ。

そうなると旅行者は当然のことながら郊外へと目を向けることになる。市街地とは反対に、ワン郊外には意外にも沢山の観光資源があるのだ。遺跡が多く、ホシャップ城という昔のクルド領主によって建てられた城塞や、チャウシュテペ城というかつてのアララト王国の城跡がある。あとはトルコ最大の湖であるワン湖が有名だ。そのなかでどこへ行こうかと、僕はガイドブックを見ながらいろいろと考えた。

「ホシャップ城はクルドの城だからきっとクルドらしい所だろう」  ― 期待していた街にクルドらしいところが全然見られなかったから、ここはクルディスタンにあこがれてワンまでやってきた僕には最適な場所だろう。

「チャウシュテペ城はアララト王国の城だから、ドウバヤジットで見たアララト山と何か関係があるのかもしれない。」  ― 旧約聖書にも出てくるアララト王国とアララト山、そのつながりを追ってみるのも楽しいかもしれない。

どちらに行こうか、あるいは両方行ってしまおうかと更に時間をかけて検討を進めた結果、何故かどちらにも行かないことになってしまった。どうしてかというと、どちらの遺跡も入場料がかかること、行くまでにバス代がかかることがガイドブックを読んでわかったからである。

そういうわけで、僕が行くことになったのは唯一残された「ワン湖」である。なかなかキレイな湖らしい。しかしキレイな湖を眺めるなんて、それこそ観光チックではないかと思うところだが、僕が見たいと思ったのは湖そのものではなく、また別のものであった。



僕がワン湖で見たかったのは湖そのものではなく、「イスケレ(Iskele)」であった。イスケレといのはもちろん英語ではなくトルコ語で、「桟橋」という意味だ。どうしてそんなモノが見たくなったのかというと、その桟橋には『駅』があったからである。

ワン湖畔にある「ワン・イスケレ駅」はれっきとした『鉄道駅』である。この駅が僕のようなバックパッカーにとって魅力的に感じられるのには二つの理由がある。ひとつはここからイランへの国際列車が出発しているからだ。このルートは長い間外国人の利用が禁じられていたのだが、最近ようやく復活した、もうひとつのイラン・トルコ国境越えルートなのである。僕にとってイランは既に通過してしまった国なので、この列車に乗る意味はもはや無いのだが、トルコから東へ向かうバックパッカーにとってはひとつの選択肢になる。

僕がワン湖で見たかったのは、どちらかというとふたつめの理由のほうである。実はこの駅からはイスタンブール行きの列車も出ているのである。僕はトルコの幾つかの街を廻ってからイスタンブールへ着こうと考えているから、やはりこの列車に乗ることもありえないのだが、それでも見てみたかったのである。

何故かというとイスタンブール行きのこの列車、ワン湖を迂回して走るのではなく、湖を横断するのである。もちろん、湖上に橋が架かっているわけじゃないし、湖水の下にトンネルが掘ってあるわけでもない。でも横断するのである。ではどうやって列車は湖を横断するのだろうか?

その答えは「フェリー」である。ワン・イスケレ駅は船着場と隣接しているのだが、ここで列車をフェリーに積んで、対岸の駅まで運んでしまうのだ。クルマを乗せるフェリーというのなら珍しくもなんともないが、長距離列車をフェリーに乗せてしまうなんてスケールの大きいハナシである。僕は列車がフェリーに積み込まれ、桟橋を出て行くその光景が見たかったのである。そういう光景は日本では多分見ることができないだろうから。こんなどうでもいいことを見たいと思う旅行者はそんなに多くはないのかもしれないけれど。

そういうわけで、僕は湖へ行くことにした。湖は遺跡同様にワンの郊外にあるのだが、交通機関を利用しなければ絶対に辿り着けないという程ではない。2時間もあれば徒歩でも行ける距離である。雪道を歩くのは少々疲れることになるかもしれないが。

そして僕が市街地からワン湖まで2時間かけて歩いた苦労はラッキーにも報わることになった。何が「ラッキー」かというと、ワン湖を横断してイスタンブールに向かうこの列車は1週間に1本しか運行されないのである。その数少ない列車を見ることができたのは、やはりラッキーだったと言ってさしつかえないと思う。

それから僕は列車のキップもフェリーのチケット持っていない。もともと利用するつもりがないのだから当然である。だから湖に着いたときには駅や桟橋の敷地内に入ることができるのかどうかも不安だったのだが、これまたラッキーにも親切なオジサンと知り合えたおかげでその問題は解消されることになった。僕は二重のラッキーに助けられたのである。

僕が駅や桟橋の周辺をウロウロしていると、そこで働いていたオジサン達が声をかけてきた。東洋人がこんな所をこんな時期に(気候から考えて冬のクルディスタンは旅行に適さない)いるのが多分珍しかったのだろう。でも英語は全く通じなかったので、僕はガイドブックに掲載されていた「旅のトルコ語」というページと、ジェスチャーをフル活用して対応した。そしてオジサン達のなかでひときわ僕に興味を持ってくれたのが「ヤシン」という名の、40〜50代くらいに見える気のいいオジサンだった。この人と知り合えた事は僕にとって本当にラッキーだったと思う。

僕がヤシンさんに「列車とフェリーが見たい。できれば写真も撮りたい。」と、カメラを見せながら言うと、彼は快く許してくれた。列車やフェリーの乗客ではないことなどは全然問題にならなかった。おまけにヤシンさんは自分の仕事を中断してガイド役をつとめてくれると、言ってくれた。僕はそこまでしてもらうのは申し訳ないのではと思ったけれども、結局はお願いすることにした。でもそのおかげで僕は列車がフェリーの中に積み込まれていく珍しい様子を写真におさめることができた。

でもヤシンさんの親切はそれだけにとどまらない。写真を撮った後には駅舎の中まで僕を入れてくれ、暖かいストーブを前にしてチャイまで振舞ってくれる。中東のオジサン達は旅行者を親切に扱ってくれる事を僕はイランを旅してきてわかっていたつもりだが、トルコのオジサンもそれに負けないくらい旅人に対しては親切である。

それからチャイを飲みながらヤシンさんと話をしていて、こんなことがあった。ヤシンさんが僕の出身について尋ねてきたのである。この質問はもう旅に出てからはしょっちゅう受ける事だから慣れている。でもヤシンさんの尋ね方には少々参った。

「アフガニスタン?」

 なんて訊いてきたからである。これはイランでも時々あったことなのが、まさかトルコでもアフガニスタン人と間違われるとは思わなかった。イランと違ってトルコとアフガニスタンは国境すら接していないとういうのに。

「僕は日本人ですよ。」

 それから僕は笑顔を作って、そう答えた。間違えられて良い気分ではないが、そんなことくらいでいちいち怒っていては海外を長く旅することはできない。するとヤシンさんは僕の答えに驚いた後、こう言った。

「君は日本人なのか。俺はクルド人なんだよ。」

 えっ?クルド人?なんだヤシンさんはクルド人だったのか。ワンにクルド人が多いことは承知していたけれど、僕とヤシンさんは今まで(つたないとは言えども一応)トルコ語で会話していたはずだから、てっきり彼のことをトルコ人だと思っていた。きっとクルド人はトルコ語がわかるのだろう。そういえばワンの街にもアルファベットが溢れていたし。そして僕は

「そうですか。じゃあトルコ人じゃないんですね。」

そんな感じで軽く相槌を打った。すると僕のその言葉を聞いたヤシンさんの表情が、ガラリと変化するのが僕にはわかった。さっきまで笑顔のヤシンさんだったのに、今は完全に不機嫌そうな顔つきである。それからヤシンさんは

「トルコ人!」

 と、言いながら僕に右手を見せて首のところまで持っていき、そしてそのまま首を切るジェスチャーをした。ちょうど刀で首をはねるような感じで。それがワン湖で出会ったヤシンさん、

  ― 僕が初めて親しくなったクルド人である。

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