「ゴンパでコルラする」
〜 チベット ラサ 〜

ラサに到着した翌日、僕達は一日の大半を宿のドミトリーで過ごしてしまった。まず、起きたら既に昼を過ぎていた。昨夜は12:00頃にチェックインしてすぐに床に就くいたのだが、まさか半日以上も眠ることになるとは思わなかった。34時間かけての5000m越えは、頭で考える以上に身体には負担だったみたいだ。それでその日の午後は食事のために外出した以外は、ずっと部屋で他の旅行者達と他愛の無い話をしていた。F原君だけは「(高山病で)まだ頭が痛い」と言って、ずっとベッドにもぐっていたけれど。

次の日の朝は早起きをし、たまっていた汚れ物をまとめて手もみ洗いした。それをドミトリーの天井から下げた洗濯紐にかけていると、なんだか不思議と観光したい気持ちになってきた。昼間から暗い部屋に閉じこもって、干してある自分のトランクスやらソックスを眺めて一日過ごすのが嫌だっただけかもしれないが。

考えてみれば日本を出て以来、僕は観光らしい観光を一度もしていない。たまには旅行者らしい事をしてみるのも悪くないだろう。僕はガイドブックを開いて行き先を検討し、頭の中でつぶやいた。

「ゴンパでコルラしよう。」

僕はラサのメインストリートから市内バスに乗り、近郊のセラ寺へと足を運んだ。なんでもセラ寺は「ラサ三大寺院のひとつ」だそうで、観光ツアーにも組み込まれる有名な観光スポットらしい。そのセラ寺を有名にしているのは、ここで学んでいる僧侶達による「問答修行」と呼ばれる独特なトレーニングで、それを見学したいというのも僕がセラ寺を訪れる理由のひとつだった。

終点の「セラ寺」でバスを降りて寺院に入ろうとしたとき、誰かが僕のことを呼び止めた。声のする方向を見ると、そこには小屋があって中には僕に向かって手招きしている人がいた。何かと思って近づくと、そこはチケット売場だった。

「いくらですか?」
「35元」
「35元?ガイドブックには30元って書いてありますよ。最新のガイドブックなんです。」
 僕は持っていたガイドブックを見せた。
「でも今は35元なんだよ。」
 係りの男性は表情ひとつ変えずに言った。
「安くならないですかねぇ・・・?」
 とびっきりの笑顔を作って、そう訊いてみた。

頼んではみたものの、やっぱりチケットは安くならなかった。よく考えてみれば当然のことだ。もし立場が逆だったら、僕だって男にニコニコ頼まれても、ちっともウレシクないだろう。残念ながら作戦は失敗、ということで仕方なく僕は35元を支払ってチケットを買った。チケットを見ると、そこには「セラ・ゴンパ」の写真が印刷されていた。

ゴンパというのはチベットの「寺院」を意味し、僧侶が仏教を学んだり、信者が巡礼に訪れる場所である。簡単に言えばセラ寺なら「セラ・ゴンパ」、デプン寺なら「デプン・ゴンパ」ということになる。そんなセラ・ゴンパの敷地内を歩き始めると、早速コルラしているチベタン達を見かけた。

コルラというのは「巡拝」のことで、仏像や仏塔の周りを時計回りに巡ることをいう。チベットではゴンパや仏塔が沢山の「マニ車」と呼ばれる金色の筒で囲まれていることが多く、信者はこのマニ車を回しながらコルラを行う。何故そんなことをするのかというと、マニ車の中には経文が入っており、マニ車を一度回す事は、経文を一度読んだことになるとされているからである。

コルラするチベタン達を見ていたら、何だか自分もやってみたくなってきた。もちろん僕はチベット仏教の信者ではないけれども、「チベット文化を知るには、何よりも経験。まずはコルラからだ。」とか理由をつけて、僕も試しにチベタンを真似てコルラしてみることにした。「ガラガラガラ・・・」「ガラガラガラ・・・」マニ車を回しながら仏塔の周りを右回りに歩く。やってみると、これがなかなか面白い。調子に乗ってマニ車を回しながらグルグルと仏塔の周りを巡る。

「ガラガラガラ・・・」「ガラガラガラ・・・」「ガラガラガラ・・・」何周かコルラしたところで、ひとつの疑問が頭をよぎる。コルラというのはいったい何周すればよいのだろう?沢山回れば「御利益」も比例するのだろうか?そもそもチベタンがコルラするのは「信仰」のためだが、僕の場合は単なる「好奇心」なので、そのへんで止めておくことにした。まあそれでも100回以上マニ車を回したので、僕も100回以上経文を読んだことになるはずだ。僕は満足して寺院内の他の場所を見学することにした。

その後1時間以上かけて学堂を見て回ったが、それにしてもセラ寺の敷地はとても広い。このペースでセラ寺の全てをコルラして回ったとしたら、半日はかかってしまう。ここはツアー客を見習ってポイントを絞ったほうが良さそうだ。とりあえず「問答修行」だけは見逃せないので、先にそこへ行くことにした。

敷地内には土産物などを扱う売店があり(恐らく観光客が多いからだろう)、そこでは欧米人の団体客が買物をしていた。彼等が買物をしているのを見ていると、店の主人は英語ができることがわかった。そこで僕は店の主人に、どこに行けば修行が見れるのか尋ねてみることにした。

「すみません、問答修行の場所を教えてもらいたいんですけど。」
「ああ、それならこの道をまっすぐ進んで、突き当たりの右にある広場だよ。」
「どうもありがとう。」
 そう言って僕が立ち去ろうとすると、主人は更に続ける。
「待ちなよ、今は修行の時間じゃない。今行っても見れないよ。」
「えっ、そうなんですか?」
 僕は驚いて言った。

確かによく考えてみれば、いくら僧侶といえども一日中修行をしているはずもない。もっとよく調べてから来るべきだった。ひょっとしたら今日の修行はもう終わってしまったのだろうか?

「それで、問答の時間はいつなんですか?」
「いつも3時ぐらいからだよ。」

僕は腕時計に目をやると、時刻は2時の少し前だった。危ない危ない。一瞬、「修行は午前中だよ」とか言われたらどうしよう、また明日来ないと行けないではないか、などと思ってしまったが、運良く助かった。これも自分の日頃の行いが良かったからかもしれない。あるいは先程のコルラが「御利益」をもたらしてくれたのかもしれない。

僕は売店でミネラルウォーターを買い、ベンチで主人とハナシをしながら1時間ほど休憩をした。そして3時少し前になって売店の主人に教えてもらった場所に行くと、そこはとても大きな広場で、大勢の僧侶が集まっていた。軽く100人以上の僧侶がいたと思うが、それと同じくらいに観光客もいた。皆カメラとかハンディムービーを手に持って、問答が始まるのを待っている。

そして3時すぎに修行は始まった。

まず、僧侶がふたり一組でペアになる。そして一人が地面に座り、もう一人は立ったままで、お互いが正対する。そして立っている僧侶が座っている僧侶に向かって「問いかけ」を行い、受けた僧侶はそれに対して「答える」のだ。問いかけに対して正解を答えることができればOKで、答えることができなければNGになるというわけだ。確かにちょっと変わった修行方法だと思う。

そういった多くの僧侶達の修行風景を見学していると、何だかとても楽しそうに見える。僧侶達はみんなニコニコしながら問答をしているのだが、特に「問いかけ」をする方は独特の「振り付け」をしながら元気な声で問いかける。振り付けは片足を上げてポーズをとったり、両手を打って相手を指差したりと様々だが、とてもリズミカルでダンスをしているかのようだ。それにしても、もし振り付けが無かったら修行というよりはただの雑談にしか見えない。

「昨夜の夕食の内容は?」
「餃子だったよ。」

 あるいは

「初恋の相手は?」
「やっぱりタシゾム村の○○ちゃんだね。」

 そんなことを言っているように見えなくもない。

僕は30分ばかり問答の見学をしてから広場を去り、ゴンパの他の場所に行くことにした。まだ見ていない学堂が沢山ある。全てを見学するのは無理だけど、できるだけは見ておきたいと思っていた。「入場料の元を取らなくちゃいけない」という貧乏性が、僕にそう思わせていたのだ。

写真を撮ったりマニ車を回したりしながら歩いていると、小さな広場で何人かの僧侶が本を読んでいる光景を目にした。この時間は全ての僧侶が問答をしているものと僕は思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。

僕はゆっくりと彼等に近づいて、僧侶にカメラを見せて「身振り手振りで」写真を撮らせてもらいたいという意思を伝えようとした。僕はチベット語は全くわからないので、それ以外に方法がない。すると、サングラスをかけた一人の中年の僧侶が頷いてくれた。どうやら僕の意思は通じたみたいだ。僕はその男性の写真を1枚撮らせてもらった。そして僕が「ありがとう」を意思表示するために頭を下げて立ち去ろうとした時、その僧侶が声をかけてきた。

「あなたはどちらからいらしたのですか?」
 チベット僧の、ゆっくりした英語だった。
「日本からです。あなたは英語ができるのですね。」
 僕は驚きながら、そう答えた。
「ええ、ただ勉強が足りないようで、まだ上手には話せないのです。」
 謙遜しながら彼が言う。
「そんなことありませんよ。あなたの英語はとてもわかりやすい。」
 僕はそう言った。それは嘘ではなかった。僕のように全く話せないというわけではないが、ネイティブスピーカーとの会話はちょっと難しいというレヴェルだと、相手も少しくらい下手なほうが逆にわかりやすいのだ。ハッキリ言って。

それから、彼とは10分ばかり世間話をしただけで別れた。それにしても僧侶である以上、仏教を学ぶことが彼の最優先事項だとは思うが、それに加えて英語まで勉強しているのだからスゴイ。チベット僧だから、たぶん中国語もできるのだろう。その勉強熱心さには本当に恐れ入る。というか、きっと勉強が好きなのだろう。そう思わないと自分が情けなくなってしまう。

以前、僕は東南アジアを旅していた頃にも何人かの僧侶と話をしたことがある。皆、南方仏教の僧侶だ。彼等の中には僧侶になりたくてなったのではなくて、「勉強がしたいから」という理由で僧侶になったという者がいた事を僕は思い出した。アジアでは「教育を受ける」というのは、限られた人間の特権とまでは言わないが、「誰にでも与えられる権利」でもないのだ。
「英語を話すあのチベット僧も、そういった僧侶のうちのひとりなのかもしれないな。」
僕はそんなことを考えながら、宿へ帰った。



その日の夜、僕と韓国人のリーはドミトリーで、今日一日お互いが「どこに行って来た」かというハナシをしていた。

「リーは今日どこへ行ってきたの?」
「セラ寺に行ったよ。まあまあ面白かった。」
「本当かい? 実は僕も今日セラ寺に行ったんだよ。」
「そうなんだ。それでKOGはセラ寺についてどう感じた?」
「問答修行は面白かったけど、入場料が値上がりしていたのが残念だったね。」
「入場料?」
 不審な顔をしながらリーが僕に言う。
「そうチケットだよ。リーも払っただろ? 入場料35元。」
 僕はリーに尋ねた。

「ああ、あそこは寺院の裏から侵入すればタダなんだよ。中ではチケットチェックもないしね。」
「・・・・・。」
「もしかしてKOG、払ったの? 入場料・・・。」
 リーが僕に問いかける。

こうして、僕の初めての観光は無事に終了した。これも僕の日頃の行いが良いからだ。



(*注1)問答の内容
後に出会ったチベット文化に詳しい人物に教えてもらったのですが、「問いかけ」は経典に記述されている仏教に関する問題だそうです。間違っても「夕食のメニュー」とか「初恋の相手」などではありません。(←あたりまえだ!)


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