「砂漠と廃墟」
〜 イラン バム 〜

パキスタン・イラン国境のイラン側はミールジャーヴェという街である。そのミールジャーヴェの出入国管理事務所で僕達のことを出迎えてくれたのは、1979年に革命を指導しイランに政教一致の体制を敷いた、あのホメイニ師の肖像だった。そして僕はここで彼の肖像を見ながら、自然とインドからパキスタンに入国したときの事を思い出していた。どうして僕がそんな事を思い出したのかというと、

それは多分パキスタンの国境にも建国の父であるジンナーの肖像が掲げられてあって、そのやり方が全く一緒だったことに気付いたせいだと思う。そしてこの後僕がイランの次に進む国は、同じくイスラム教を国教とするトルコになる可能性が高いのだが、インドからパキスタン、そして今回のパキスタンからイランへの「国境越え」の経験から、このぶんだとトルコの国境でも同じようにアタチュルクの肖像を見ることになるであろうということが、僕には(まだ行ってもいないのに)予想できてしまった。また、そのことは僕にとって少し残念なことでもあった。何故なら国境越えは僕にとって数少ない「楽しみ」のひとつであるからだ。

世界には様々な国境が数多くあって、僕はこの旅でそのうちの幾つかを越えてきた。中国・ネパール間のように橋がかかっていて、橋を渡ると人々の顔つきや使われる言葉、そして風景までもがガラッと変化して驚かされる国境もあれば、ネパール・インド間のように人々の肌の色も言葉もあまり変わらず、おまけにいったいどこが国境線なのかもよくわからないという、そんな国境もあったりした。

いずれにしても今までの僕にとっての国境というのは、「行ってみないと、どんなところかわからない。」場所であって、そんな僕が国境に辿り着いたときには

「前の国境とは、だいぶ印象が違うなあ。」

 あるいは、

「陸続きの国境だと、あまり変化ないなあ。」

 などと言って、目に映る国境の様子を楽しんで見物していたのであった。言うならば「どんなところかわからなかったからこそ」国境に辿り着いたときに楽しく見物できたのだった。ところが最近の2カ国連続のイスラム国家への入国が同じようなものだったために、次の国への国境の状況が予想できてしまうとあっては国境越えの楽しみも削がれてしまうというものだ。それは僕にとっては本当に残念なことだった。



国境を越えた僕達は、とりあえず乗り合いタクシーでイランでの旅の起点となるザーヘダーンの街へと向かう。タクシーの乗客は僕達二人と、同じく国境を越えてやってきたパキスタン人男性3人組のあわせて5人。あとドライバーが何故か二人もいて、合計するとこのタクシーに乗っているのは男ばかり合計7人ということになるのだが、それほど窮屈でもない。何故かというと乗客は皆、『荷台』に乗せられたからである。ようするに、クルマはタクシーとは名ばかりの軽トラックだったのだ。

しかしながら荷台に乗せられたおかげで景色は良く見える。四方八方見渡しても見えるのは荒地ばかりだけれど、そんなふうに景色を見ていたら、ふと気が付いたことがある。それはイランの道路についてであった。イランの道路が右側通行だったのである。僕がそれまで滞在していたパキスタンにしても、その前のインドやネパールにしても道路は日本と同じで、左側通行だった。また、

道路そのものにしても今までの国と比べてキチンと整備されているところが違っていた。パキスタンでも高速道路に限って言えばしっかりと整備されてはいたが、このイランでは一般道でも舗装されているのはもちろん、中央分離線までキレイに引かれていた。そのことは僕にイランという国がインフラ整備に関して十分に充実しているということを窺わせた。

その後ザーヘダーンの街で僕とH之クンはタクシーから長距離バスに乗り換えた。ターミナルを出発したバスはザーヘダーンの市街地を抜け、丘陵地帯を2時間ほど走る。それからは車窓から見える風景が一変した。そこにあったのは広大な「砂漠」の風景だった。

実を言うとパキスタンのクエッタから国境の街であるタフタンの間も、僕達が利用したフライングコーチは(15時間もかけて)砂漠の中の道を走っていた。だから僕の「砂漠初体験」はパキスタンになるはずだったのだが、あいにくとこのフライングコーチは夜行バスだった。そして国境付近はクエッタやザーヘダーンと同じく丘陵地帯だったから、僕達はパキスタンの砂漠の風景を全く見ていなかったのである。だからイランの砂漠が本当の意味での僕の「砂漠初体験」だった。

「これが砂漠なんだ・・・。」

イランの国土は、その大半が人の住まない砂漠であるという。今まで写真でしか観たことがなかったそんな砂漠の風景に、僕は視線を奪われていた。車内では備え付けられたテレビでイランのコメディ映画が流されていたのだが、そちらには全然関心が及ばなかった。そんな砂漠を横断する舗装道路をバスは5時間ほど走り、僕達はバムの街に到着した。結局到着するまでの数時間、僕は飽きもせずにずっと砂漠の風景を見続けていた。



バムは『ルート砂漠』(僕が車窓から見ていた砂漠)の南端に位置する、ケルマーン州の街だ。特に有名じゃないし、市街地については歩いて廻りきれるほど小さい田舎の街である。また街の周囲は砂漠だから、これ以上はどうやっても大きく発展させることは難しそうだし、言っちゃ悪いが将来性についてもあまり期待できそうにない街だ。このバムから更に数時間西へ向かって走ると州と同名のケルマーンという大都市があり、そこに滞在したほうがなにかと便利だったし、その日のうちにバスを乗り継いで行くことも難しくはなかったのだが、結局僕達はそうはせず、この辺鄙な街に留まることにした。もちろん、そうしたのにはそれなりの理由があった。そしてその理由とは、僕達には(僕には)珍しく、『観光』することだった。

「『アルゲ・バム』だけは絶対に見るべきだ。こう言っちゃなんだけどエスファハンの『エマーム広場』や、シーラーズの『ペルセポリス遺跡』なんて別に見なくてもいい。だけどアルゲ・バムだけは、今見ておかないと必ず後悔することになるよ。」

そう僕達に言ったのは、パキスタンのバックパッカー宿で知り合った日本人旅行者だった。彼は西から流れてきた旅行者だったのだが、これからイランに向かうという僕達に対し、『アルゲ・バム』というバムに存在する遺跡を見学するよう、しきりに勧めてきた。

最初、僕は彼の言葉に疑問を感じた。アルゲ・バムがどんな遺跡なのかはよく知らないけれど、それを見なかったからといって、何故どのように後悔するのかが、上手く想像できなかったからだ。僕はこの旅ではあまり観光していない。遺跡に関しては特に観光していない。最初の国、中国では全く観光しなかった。次のチベットではセラ寺とエヴェレストに行ったが、後者はパーミッションの関係で当時一緒に旅をしていた韓国人に付き合ったというだけで、自分が望んで行ったわけではなかったし、そもそもヒッチハイクでエヴェレストに行った事をはたして観光と呼んでいいのか甚だ疑問でもある。

ネパールで行った観光地はルンビニだけ。しかしこのルンビニですら観光するために行ったわけではなく、「タダで滞在」できる巡礼宿が目的だった。インドではバラナシとアムリトサルが観光地と呼べそうだが、アムリトサルに行ったのはルンビニ同様やはり巡礼宿での滞在が理由であった。

特に観光地に縁が無かったというわけじゃない。中国には西安の始皇帝陵、チベットにはラサのポタラ宮、ネパールにはカトマンズのモンキーテンプル、インドではアグラのタージ・マハルが、僕が滞在していた街もしくは僕が移動した路線上にあった。でも僕はそういった名所・世界遺産をことごとくパスしてきた。その訳は費用が惜しかったというのも確かにあるが、それは一番の理由ではなかった。本当の理由は他にあったのだ。その理由は

「観光名所なんていつでも来れる。」

 と、思っていたからだった。この時代、観光名所と呼ばれるところなら世界中のどこにでも沢山の日本人が旅行に来ている。あまり長い休みの取れない日本人がこれほど多くやって来れるのだから、世界の有名な観光地というのはアクセスがしやすいように交通が発達していているのだろう。

僕が日本に帰ってからいったいどんな人生を歩んでいくのかさっぱりわからないけれど、「いつでも来れる場所なのだから、あえて今行かなければならないこともないだろう。」というのが僕のスタンスだった。そんな旅を続けてきた僕だったが、今のところ特に後悔していない。また、もし将来日本に帰ったときに後悔することがあったとしても、別にたいしたことじゃない。そのとき行けばいいだけのハナシだ。

僕がその自分の考えを彼に言うと、

「確かにKOGの言うとうり、5年後でも10年後でもアルゲ・バムは見れると思うよ。でもその頃にはきっと、『今とは似ても似つかないアルゲ・バム』を見ることになってしまうと思うんだ。」
 と、彼は意味深なセリフを吐いた。
「『今とは似ても似つかない』って、いったいどういうことなの?」
 僕がそう尋ねると、
「アルゲ・バムの最大の魅力は『廃墟っぷり』にあるんだよ。」
 と、彼は答えた。



彼によると、アルゲ・バムは「崩れつつある遺跡」なのだそうだ。もともと1700年代初頭に住民が逃げ出して廃墟になった街の跡なのだそうだが、それ以来何故かほったらかしにされていて、その『廃墟っぷり』に磨きがかかったらしい。

「どうしてイランは廃墟を整備しないんだろう?」
 整備すれば観光スポットとして売り出せそうな気がしたので、僕はそう言った。すると彼は
「いや、それがついに最近修復作業が本格化したんだよ。今ではしっかり入場料も取ってる。」
 と、彼は答えた。

続けて彼は実際に見てきたという、修復作業について説明してくれた。それは世界中に数多くある遺跡の修復と同じように、「当時のものを復元する」というコンセプトのもとに作業されているらしい。アルゲ・バムの敷地内で、修復の手が入ったところは本当にキレイに仕上がっていて、その部分はもうとても廃墟とは呼べないと、彼は言う。

しかしながら修復の手が入っている箇所は敷地内のごく一部で、「今なら」まだアルゲ・バムの廃墟っぷりが十分に堪能できるとも、彼は僕等に言った。彼のハナシが事実ならば、(今まであんまり熱心に観光してこなかった僕だけど)政府による本格的な修復作業が完了してしまう前にアルゲ・バムを観ておくのも一興ではないかと、思ったのだった。それが僕達がバムに留まった理由だったのだ。

そして僕達は街中の宿に1泊した翌日、早速遺跡へと繰り出した。入場料が宿代以上の金額だったのには閉口したが、だからといって引き返してもしょうがない。こんな田舎町では他にすることもないのだ。国境で見たのと全く同じ、ホメイニ師の顔が印刷された10,000リヤール札3枚でチケットを買い、僕等は遺跡に足を踏み入れた。

アルゲ・バムは確かに廃墟だった。パキスタンで会った彼が説明してくれたように、これ以上ないくらいの『廃墟っぷり』だった。そして僕はこのアルゲ・バムを観てその『廃墟っぷり』に驚くとともに、

「こんなに『潔い』遺跡がまだ世界にあったんだな・・・。」
 
 と、感心していた。

遺跡はまさしく、「今にも崩れそうな」状態だった。というか、既に崩れ落ちている建物も沢山あった。泥を固めて造られたせいか、まだかろうじて立っている家々も触れただけで壊れてしまいそうだった。約300年という時間が、それほどまでにこの街を風化させたのだ。そして僕を感心させたのは、まさしくその風化だった。下手に修復されないで、あまりにも潔く滅んでいくその有様に、僕はちょっと心を打たれたのだった。



僕には自分の旅がどこまでのものなのか、いまだにわからない。中東を抜けてアジアを横断してしまえば僕の旅は終わるのか、それともアジアでは旅の終わりを見つけられずに、ヨーロッパを北上するのか、あるいはアフリカを南下してしまうか、自分でもわからない。

先の事はわからないが、たとえ僕の旅がアジアで収まりきらずにヨーロッパやアフリカに進路をとる事になったとしても、たぶん僕は「名所・旧跡めぐり」というような旅はしないと思う。決してそのような旅行を否定するつもりなどさらさらないが、僕自身に関して言えばしないだろう。

もしこの先ヨーロッパへ進むならギリシャからということになる。ギリシャというとアクロポリスのパルテノン神殿やオリンピアの競技場という世界遺産が思い浮かぶが、多分行かないだろう。アフリカへ進むならエジプトからということになり、そこにはやはり世界遺産のピラミッドやスフィンクスがあるだろうが、こっちにしても多分行かないだろう。

理由は今までパスしてきた文化遺産と一緒だ。「行っても現代の技術によって生きながらえている遺跡が見れるだけだ。そんな遺跡だったら修復の度合いが違っているくらいで、将来だって日本から見に来れるだろう。それなら今行かなきゃならないということもない。」別に遺跡の修復について否定するつもりなどこれっぽっちも無いが、その点についての気持ちは変わらない。

でも、

「でもこのアルゲ・バムのような『潔い』遺跡だったら、観光するのも悪くないかもしれないな。」

 と、僕はそんなことを思いながら廃墟を見下ろしていた。



 * バム地震
2003年12月26日に発生したマグニチュード6.3のイラン南東部地震により、バム市総人口の約4割にあたる43,200人が亡くなりました。旧市街では80〜100%の家屋が倒壊、「アルゲ・バム遺跡」については、ほぼ全壊とのこと。今にも崩れ落ちそうな廃墟でしたから、地震で全壊したのも仕方のない事なのですが、大変残念に思います。最後になりましたが、亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
(*上記の情報は「日本国外務省のホームページ」より引用しました。)


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