「国境にて」
〜 インド アタリ 〜

国境のインド側にあるイミグレーションには、BSFという名称の建物があった。BSFというのがいったい何の頭文字なのかは全くわからなかったが、そこには

「DUTY UNTO DEATH」

 と、付け加えるように英語の文章が添えられていた。インド英語特有の単語や発音にはこれまでもしばしば苦労してきたのだが、この「UNTO」という単語もまたどのように訳せばよいのか、悩んでしまった。その前後の単語から全体の意味を想像すると、「死」に対しての義務を示している、もしくは「死」を否定している文章だと思うのだが、いずれにしても穏やかな内容ではないようである。

ましてや肩からライフルをさげた軍人が警備している建物とあっては。



カシミール地方の帰属問題に端を発する印パ政情不安は、この年(2002年)の夏にその軍事的緊張関係が著しく高まって、「第四次印パ戦争勃発か?」もしくは、「ついに核戦争になるのでは?」という懸念が世界を駆け巡っていた。(インドとパキスタンは共に核保有国である。)日本政府もこの時期インド・パキスタン国境付近には高度の『危険情報』を発出していて、テレビや新聞でも大きく取り上げられていた(ようだ)。

しかしながらインドやパキスタンに住んでいるならともかく、ただ旅を続けているだけのバックパッカーにはそういった正確な情報というものはなかなか手に入りにくい。また仮に入ってきたとしても「危険情報なんか気にしない」という連中もいて、国境を越えようとするバックパッカーは皆無というわけではなかった。

そしてそういったバックパッカーがどうなったのかというと、「運が良ければ国境を越えることができたし、悪ければ引き返せざるを得なかった。」というのが、正確なところだと思う。何故結果が二通りあるのかというとそれは、「両国の軍事衝突の懸念から、一時国境が閉じられた。」からである。

インド・パキスタン間で外国人が陸路で国境を越えることができる場所は、アタリ(インド側) ― ワガ(パキスタン側)間の1箇所しかない。アタリはインド・パンジャブ州の街であり、ワガはパキスタン・パンジャブ州の街だ。どちらもパンジャブという州名なのは、このあたりがもともとはひとつの地域だったからである。インドとパキスタンが旧宗主国のイギリスから分離独立する際に、州を真っ二つに分けるように国境線が引かれてしまったという、問題ありげな地域なのだ。とはいえ、

「ここはカシミールからは随分離れているから、特に問題ないだろう。」

 というのがここの国境を越えようとしたバックパッカー達の主観であり、事実僕もそう考えていた。ところが2002年の9月に国境は突然閉じられたのである。その原因はインド・パキスタン両政府がそれぞれのパンジャブ州国境付近に、『敵』の侵攻に備えて軍隊を派遣・配備したからだった。僕がアタリを訪れる約3ヶ月前のことだ。

そしてその時期に国境を越えようとしたバックパッカーは、(当然のことながら)泣く泣く引き返すハメになってしまった。「そんな時期に外国人が国境を越ようとするなんて」という意見もあるかもしれないが、当の本人達はそれほど深刻に考えていたわけではないし、「時期がもう少しズレていれば、国境を越えられたのに・・・。」と、むしろ残念がるくらいであった。

彼等の気持ちが僕にはわからないでもなかった。何故なら国境に軍隊が配備される前(ついでに地雷が埋められる前)は、いろいろと問題はあるにせよ通過することができたわけだし、もう少し後ならば(10月中旬には)両軍が撤退し、地雷の撤去作業も始まって国境も再び開かれたからである。

そんなわけでバックパッカーがこの国境を越えられたかどうかは、時期という『運』によって左右されたわけなのだが、僕がアタリを訪れた12月は幸運にも国境は開かれていた。この後に両国関係がどうなるのかなんて僕にはさっぱりわからないのだから、この時を逃すことはできない。

でも、実を言うと僕は少し怖かった。この旅で「国境越え」は何度も経験してきたけど、それでも今回ばかりはさすがに怖かった。何しろ数ヶ月前まで両政府軍が配置されていて、地雷も埋まっていた地域である。そんな国境を越えるというのは、ワクワクするというよりもビビッていたという方が正直な気持ちだったのだ。

そしてそんな気持ちを抱えながら国境までやって来たところ、「DUTY UNTO DEATH」なんて文章を見ちゃったのだから、もう最悪だ。更に気持ちが萎縮して、ひょっとしたらアムリトサルに引き返してしまったかもしれない。

もし僕が一人で国境を越えようとしたのであれば。



僕がアムリトサルに引き返さずに済んだのは、そのとき僕に二人の連れがいたからだった。ひとりは20代中頃の日本人男性で、名前をH之クンという。僕がこれまでに何度も見かけた日本人バックパッカー達と同じように、彼もまた会社を辞めて旅に出てきた男だった。彼は中国から旅を始めたのだが、この後はトルコまでアジアを横断して、それからエジプトのカイロを目指すのだそうだ。

そしてもうひとりはまだ自己紹介もしていない白人男性だった。自己紹介はしていないが、彼に「どこから来たのか?」と訊いたら、「イスラエル」と答えたので、たぶんイスラエル人なのだろう。二人ともアムリトサルの巡礼宿に泊まっていたのだが、もちろん巡礼者ではなく、ただのバックパッカーである。

僕達3人はアムリトサルを出て国境の街であるアタリへ向かう日が同じだったので、一緒に行くことにした。巡礼宿からアムリトサルのバスターミナルへはオート・リクシャーで行くつもりだったから、その料金をシェアできるのは僕にとっては好都合だったし、他の二人にとってもそれは同じであった。

そして僕等はターミナルからローカル・バスに乗り、およそ1時間でアタリの街に到着した。僕等が目指すパキスタンまで、あと少しだ。



アタリの街でインド側の出国手続きをするために事務所を探していると、いろんな客引きが声をかけてきた。両替屋の男がほとんどだったが、そのなかに奇妙な言葉を連呼する男が一人いた。

「Last Beer! Last Beer!」

当然その男は僕達に向かって声をかけているのであったが、「Last Beer」というのがどういう意味なのか、よくわからない。単純に訳せば「最後のビール」という意味になるのだが、最後のビールって一体何なのだろう?インド英語のことだから、ひょっとしたらまた別の意味があるのかもしれない。

あるいは、「ラスト・ビアー」という銘柄のビールがあって、彼はその宣伝マンだという可能性もある。僕は日本にいた頃「バド・ガール」という、バドワイザーのビールを売るために何故か水着で宣伝している若い女性をテレビで観たことがある。(それにしてもどうして彼女達は水着なんだろう?)日本にバド・ガールなんていう女性がいるのだから、インドに「ラスト・ボーイ」という男性がいたとしても不思議ではない。はたして彼はラスト・ボーイなのだろうか?とりあえず彼は水着ではないのだが、もし水着だったらハッキリ言って彼からは買いたくない。

だいたい今までいろんな客引きを見てきたけれど、ビールの客引きなんて初めてだ。インドでは(一部の地域を除けば)法によって飲酒を禁じているというわけではないのだが、インド人には酒を飲むという習慣がほとんど無い。だから今までインドの街でバーやクラブといった類の店を見たこともない。それで僕は不信に思って、

「Last Beerって、どういう意味なの?」

 そう、僕は尋ねてみた。

「君達はこれからイスラムの国、パキスタンに行く。そうしたら、(宗教上の理由で)酒は飲めないよ。だけどアタリはインドの街だ。俺の店なら、まだ飲める。」

 と、その若い男はニヤリとしながら答えた。なんだ、それで「最後のビール」ということだったのか。それにしてもイスラム教の国を目の前にして酒を飲ませるとは、なかなかウマイ商売だ。「この後はもう飲めないよ。」なんて言われると、何故か無性に飲みたくなってしまうではないか。

「飲もうかな。」

 僕は一瞬そう思ったのだが、やっぱり思いとどまった。その理由は二点ある。第一にお金の問題だ。インドでは需要が小さいせいなのかどうかわからないが、その物価から考えるとお酒はけっこう高いのだ。バックパッカーである僕にとって、贅沢は『敵』である。第二に僕等はアタリの街で宿泊するわけではなく、出国手続きが済んだらすぐにパキスタンに入国するつもりでいたからだ。僕は酒がけっこう好きで自分でも決して弱いほうではないと思うのだが、良くないことに一度飲み始めると際限なく飲み続ける癖がある。それでつぶれてしまうことはないのだが、はたして泥酔した状態でパキスタンに入国したらいったいどうなってしまうのだろうか?激昂したパキスタン人から宗教に無理解な外国人と思われてボコボコにされてしまうかもしれない。その前に入国管理で撃ち殺されないだろうか?

いずれにしても、大統領が

「先制攻撃に対しては、核で報復する。」
 
 と、公に発言するような国である。国境の役人にも、大統領の薫陶がしっかり受け入られているだろう。泥酔した日本人バックパッカーが国境で大暴れしたら、先制攻撃と勘違いされるかもしれないし(?)、その報復として日本に核が打ち込まれたとしても、僕には責任が取れない。(あたりまえだ。)結局僕等はビールじゃなくて、チャイとオムレツを注文をして朝食代わりにすることにしたのだった。



朝食を取り終えた後、僕等は再び事務所を目指して歩き始めた。途中ポリスチェックがあったが、パスポートを見せると、簡単に通してくれた。僕等はそのまま先にある事務所へと向かおうとしたのだが、ところがイスラエル人が何やらポリスと話し込んでいる。いったいどうしたんだろう?

数分後、イスラエル人がポリスチェックを通過して僕とH之クンのところへやってきた。「何か問題があったのか?」と尋ねると、

「絶対に国境は越えないから緩衝地帯のところまで行かせてくれって、頼んでいたんだ。なんとかOKしてもらえたよ。」
 と、言う。
「えっ?君もパキスタンに行くんじゃないの?」
 僕は彼の言葉に驚いて訊いた。
「ああ、行かないよ。本当は行きたいんだけどね。でもビザが無いんだ。」
 彼は答えた。
「他の国で取ってこなかったのかい?」
 
僕がそんなふうに尋ねたのは、インドとパキスタンの関係上、インドでパキスタンのビザを取得するのは不可能だからだ。それと同時にパキスタンでインドのビザを取得することも、また不可能である。だからこの地域を東から西へ向かう旅行者はネパールかバングラデシュでパキスタン・ビザを取得するし、西から東へ向かう旅行者はトルコかイランでインド・ビザを取得する。彼はそのことを知らなかったのだろうか?

「ネパールやバングラデシュにパキスタン大使館があることは、僕も知っているよ。ただ僕は君達と違って、他の国でもパキスタン・ビザを取ることはできないんだよ。僕達イスラエル人は彼等にとっては『敵』だからね。」

 彼は僕の問いに対して、『敵』(enemy)という単語を使って答えた。

僕が彼の話の内容を上手く飲み込めずにいると、彼は続けて事情を説明した。それによると、彼の母国(つまりイスラエル)がパレスチナ問題でイスラム諸国と反目し合っている為、イスラエル人がイスラム諸国のビザを取得するのは、世界のどこの国であっても不可能なのだそうだ。

僕はもちろんパレスチナ問題についての一般的な知識は持っていたけれど、それがバックパッカーにまで影響を与えているなんて、今まで全然知らなかった。だから彼の説明に僕はすごく驚いた。でも、

「でも、それならパキスタンに行けないとわかってて、どうして国境までやって来たんだい?」

 僕は彼の行動を不思議に思って、訊いてみた。誰だって不思議に思うだろう。

「パキスタンっていう国を、一目でいいから自分の眼で見てみたいんだよ。たとえ遠くからしか見えないとしてもね。」

 彼は少しだけ悲しそうな表情で、そう僕に答えた。

僕とH之クンはインド側の出入国事務所で手続きを終えると、そのままパキスタン側へ向かって歩き出した。アドレスどころか、お互いの名前さえ交換しなかったイスラエル人とは、そこで別れることになった。

緩衝地帯を少し歩くと、そこにはパキスタンの入国門があった。大きな門の最上部にはパキスタン建国の父であるジンナーの肖像があり、その下には初めて目にするウルドゥー文字が書かれていた。僕はその門を見ながら、

「アイツにも、この門が見えているといいけど。」

 と、そんなことを思っていた・・・。

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