「四カ国語を話す男」
〜 インド デリー 〜

列車がカルカッタのハウラー駅を出発してから24時間ほど経過した頃、僕は二等寝台車両のアッパーシートで下車する準備を始めることにした。列車の運行が予定どうりならば、そろそろデリーに到着するはずだからだ。僕はそれまで読んでいた本をしまい、盗難防止のために繋いでいたチェーンをバックパックから外し、ジャンパーを着込んで靴を履いた。車両内には

「チャーイ、コッヒィ!チャーイ、コッヒィ!」(チャイにコーヒー!チャイにコーヒー!)

 という、チャイとコーヒーを売り歩く老人の声がうるさいくらいに響いていた。僕は老人から路上で飲むよりは若干割高な一杯5ルピー(13円)のチャイをもらうことにした。老人に声をかけると、彼は馬鹿でかいヤカンに入ったチャイを紙コップに注ぎ、僕に手渡す。それをすすりながら目的地への到着を待とうと思っていたのだが、列車がデリーに辿り着くまでには、時計の長針がその文字盤を更にあと3周するだけの時間が必要だった。一杯のチャイだけでそれだけの時間を潰せるはずもなく、僕はただ窓の外の退屈な風景を眺めながらカルカッタでの3週間の滞在を振り返っていた。



ボランティアを辞め、カルカッタでの滞在を終えることを決めた僕は、その後の自分の針路について考えていた。インドには既に1ヶ月滞在していたから、そろそろ別の国に行こうと思っていたのだが、それでは「どちらの国に行くのか?」という二者択一の問題について、僕はなかなか決断できなかった。二者というのは、東のバングラデシュと西のパキスタンのことである。

海を挟んだ南にはスリランカという国もあったのだが、現在外国人ツーリストが乗れる船はインド ― スリランカ間では運航されていないというのが、南アジア周辺をうろつくバックパッカーの間では通説になっていた。もちろん飛行機を利用するならば全く問題無く行けるのだが、その費用を考えると、僕には非現実的な選択だ。となれば東か西に行くしかない。

東のバングラデシュと西のパキスタン、どちらもイスラム教の国である。僕は今までイスラム圏を旅したことは無かったので、その二つの国名はとても魅力的に僕の頭の中に響いた。どちらも甲乙つけがたくて自分でもかなり悩んだのだが、最終的に決め手になったのは二つの『軍事政権』の存在と、その政策に表れている外国人に対する寛容さの違いだった。バングラデシュの更に東にはミャンマーという国があるのだが、この国はその軍事政権による鎖国的とも思える政策によって、バングラデシュ側から外国人が入国するのは不可能に近い。それに対してパキスタンはどうかというと、これも軍部出身のムシャラフ(:現大統領)がクーデターによって政権の座についた軍事政権には違いなかったが、幸いなことに国境は(今のところ)外国人にも開放してくれている。

僕の旅があと1、2カ国で終わるのものならば、バングラデシュへ行くのもいいだろう。しかし僕には自分の旅がそうなるとは到底思えなかった。ならば「行き止まり」が見えている東に向かうよりも、西のパキスタンに行くほうがいい。パキスタンの更に西には陸路で国境を越えて進んで行ける(と、思われる)国々が、まだまだ連なっているのだ。そんな理由から僕はインドの次に自分が進むべき国はパキスタンと決めた。

とはいえ、インドはその国土面積が日本の約9倍という大きな国である。僕がパキスタンへ行くには、まずこの広いインドを横断する必要があった。だから僕はとりあえずデリーを目指すことにしたのだ。



結局3時間遅れでデリーに到着した僕は、その新市街側であるニュー・デリーと呼ばれる地域の、「メインバザール」という通りで安宿を探すことにした。

メインバザールはその名が示すとおりに庶民の生活用品を商う店から旅行者向けの土産物を扱う店まで、様々な商店やレストラン、ホテルなどが立ち並ぶ活気のある通りである。

ニュー・デりー駅から西に向かってまっすぐに伸びる、その混雑した通りを僕は一人でバックパックパックを背負って歩いていた。すると、

「あれ、ひょっとしてどこかで会ったことありませんか?」

 と、いきなり後ろから日本語で声をかけられたのである。声のかけ方からいって一瞬、タチの悪いキャッチ・セールスかと思ったのだが、よく考えてみればここはインドであり、そんなはずがない。そんなことを考えながら振り返った僕の前には、見覚えのある若い日本人の男性が立っていた。



「どこかで見た顔だと思ったんだけど、そうか『クミコハウス』だったんだ。」

 『ブライト・ゲストハウス』の中庭でM士クンは、「そうだ、思い出した。」という表情で僕に向かって言った。M士クンと僕が最初に出会ったのはバラナシのクミコハウスだった。もっとも「出会った」と言ってもそのときは彼がシングル・ルームに泊まったいたせいもあって、ドミトリーのベッドを借りていた僕とはほとんど話す機会も無く、お互いに「顔を知っている。」というぐらいの間柄にすぎなかった。まあそれでも再会は再会に違いなく、メインバザールの路上で僕が彼に安宿を探している事を言うと、彼は「自分が泊まっている宿は結構安いよ。」と言って、この宿まで案内してくれた。おかげで僕は特に宿探しの苦労をせずに、安宿の一室にありつくことができたのだった。

ブライト・ゲストハウスの宿泊代はM士クンが言ったとうり、他のバックパッカー宿よりも少し割安だった。僕が宿泊することにした部屋はいつものドミではなくツインルームだったが、それでも80ルピー(200円)にすぎないのだから確かに安い。「どこの国のガイドブックにも掲載されていない宿だから。」というのがM士クンの説明だったが、それにしてもよく見つけたものである。そのことを僕が言うと、

「僕は旅行者じゃなくて、一応デリ−に住んでいる身だからね。少しは詳しいよ。」
 と、答えた。

M士クンは旅行者ではなかった。彼も一度は日本で学校を卒業して普通に会社勤めをしていたのだが、あるときそれを辞め、ヒンドゥー語を勉強するためにインドにやってきた『学生』だった。彼は僕がネパールで取得したようなツーリスト・ビザではなく、1年間有効の立派な学生ビザも持っていた。安宿に滞在しているのは本人曰く、「インドで外国人が住居を契約する手続きはかなり面倒だから。」とのことである。それにしてもヒンドゥー語を勉強をするために会社を辞めて、また学生に戻るなんて変わった男だ。スペイン語とか中国語ならまだしも、よりによってヒンドゥー語だなんて。

「将来ヒンドゥー語を使ってできる仕事に就くつもりなの?」
 僕は尋ねた。
「いや、そういうわけじゃないんだ。それにインドに関係するマトモな仕事に就こうと思ったらやっぱり英語だよ。」
 と、彼は言った。英語はインドの公用語である。
「それならなんでまた・・・」
「僕は将来もインドに住みたいと思っているんだ。インドで仕事を探すなら英語が必要だけど、生活するにはまずヒンディー(ヒンドゥー語)が出来ないとね。あとは、あまり人がやっていないようなことを勉強したかったっていうのもあるけど。」
 彼は答えた。



彼が自分で言うように、確かにM士クンはデリーに詳しかった。彼は普段は学校へ行って勉強しているのだが、それ以外の時間の多くを僕のために使ってくれた。彼がいろいろな場所へ僕を連れて行ってくれたおかげで、僕のデリー滞在は自分が思っていたよりも有意義なものになった。

なぜならデリーはインドの首都だけあって大都市ではあるが、面白味には欠ける街であると、他の旅行者から聞いていたからである。事実、ニュー・デリーの中心である「コンノート・プレイス」などは、デリーにやって来た外国人観光客ならば1度は訪れる場所だと思うのだが、現在は首都に初めてメトロ(地下鉄)を敷設しようとする計画が進行中であり、地域の大部分がバリケードで覆われていた。

僕はこの先自分が行くであろうと思われる国のビザを、このデリーで取得しようと思っていたから、最低でも1週間はここに滞在する必要があった。だから他の国から直接デリーに来たというような旅行者ならともかく、既に幾つかのインドの都市を廻っている僕にとっては、もしM士クンと再会していなかったら、この1週間はとてつもなく退屈なものになっていたことだろう。

名物のタンドリー・チキンを食わせる店にも連れて行ってくれた。僕はネパールにいる頃、「インドではどこに行ってもカレー三昧になるぜ。」と、これも他の旅行者から聞いていたというか、無理矢理聞かされていた。インドの食事に馴染めなかったという旅行者は多く、そういった旅行者は大抵の場合これからインドに行こうとしている旅行者に対して「かわいそうに・・・」という表情で語るものだから、僕はインドの食事については全く期待していなかった。でもタンドーリー・チキンだけは例外で、これは唯一僕がインドで「食べてみたい」と思っていた料理だった。でもインドはヴェジタリアンの比率が高い国で、牛は当然だけどそれ以外の肉も食べることもできないという店も結構あって、今まではタンドリー・チキンを出す店はほとんど見かけなかった。ガイドブックに掲載されているような立派な店で食べるのならば事は簡単に済むのだが、そういう店は値段も立派なケースが多いので、僕はあまり利用しない。

M士クンが最初に連れて行ってくれると言ってくれたときにも、

「タンドリー・チキンは食べてみたいけど、値段がねえ・・・」
 なんて僕は答えたのだが、
「大丈夫、その店は観光客が来るようなレストランじゃないんだ。だから値段も高くないよ。」
 と、言うので行くことにしたのだ。

その店は確かに彼が言うようにレストランというよりは、『定食屋』という表現のほうが適切な店だった。客もインド人ばかりで、外国人バックパッカーの姿も無い。あまり無駄遣いをしないバックパッカーは、「安くて美味い店」というものをいつも探していて、その手の情報は彼等の間ではすぐに広まってしまうものなのだが、この店は特に新しいというわけでもないのに、その存在をバックパッカーにまだ知られていないようだった。

店はとても繁盛しているように見えた。肝心のチキンもとても美味しく、僕はハーフ・サイズのそれを注文したのだけれど、それでも量を少ないとは感じなかった。もっとも僕はこの旅の節約生活のせいで胃が小さくなっていたから、そのことを差し引いて考えなければいけないのだけれど。

それにしてもこういう地元の人間しか来店しないような良い店を知っているなんて、M士クンはさすがにデリーに住んでいるだけのことはある。彼はヒンドゥー語を使って苦も無く料理を注文しているし、全く頼もしい。僕が見る限り、彼のヒンドゥー語は日常生活においては全く問題のないレヴェルにあるようだ。外国語ができる人間というのは本当にスゴイなと、僕はほとんど尊敬の眼差しで彼を見ていた。

でもこれはどんな分野においても言えることなのだけど、やっぱり「上には上がいる」のである。



ある夜、僕とM士クンは夕食のために『ダイアモンド』という名の、最近オープンしたばかりだというレストランに行くことにした。そこはメインバザールの一角にある外国人向け(外国人バックパッカー向け)のレストランであり、入ってみると確かに客層は外国人だったのだが、そのほとんどがイスラエル人だったというのが奇妙と言えば奇妙だった。

どうもイスラエル人の旅行者というのは自国の人間で集団をつくってしまう傾向があるようで、僕は以前にもこんな店(あるいは宿)を見かけたことがある。もっともこの傾向は韓国人や日本人の旅行者にも言えることではあるけれども。

それはともかく、この店にいる客のなかでアジア人とおぼしき者は僕達二人と、あとはもう一人だけだった。そのもう一人というのは、一見しただけではアジアのどこの国の人間なのか判別できない顔の男性だったのだが、少なくとも地元のインド人ではないようである。僕達のことを同じアジア人だと思ったからなのかどうかはわからなかったけれど、その男性は僕達に話しかけてきた。そしてそのとき僕達はとても驚いたのである。本当に。

海外で見ず知らずの人間に話しかけられるのにはもう慣れていたから、僕達は別にその点について驚いたわけではない。僕達が驚いたのはその男性が使った言語について驚いたのだ。実はその男性は日本語を使って僕達に話しかけてきたのであるが、その日本語というのがよく観光地で聞かれるようなカタコトの日本語ではなく、スラングさえ混じった「ペラペラ」という表現の更に上をいくレヴェルのものだったのだ。

「どうしてそんなに日本語が上手なの?」
 僕は質問した。
「日本に住んでいたからね。」
「日本のどこ?」
「吉祥寺だよ。いい街だった。」
 彼はそう答えた。もし彼が「東京」と答えたのだったら(あるいは百歩譲って、新宿とか秋葉原とか答えたのだったら)、インチキ臭い話だと疑ってしまうところであるが、出てきた答えはなんと「吉祥寺」である。東京都内とはいえ23区にも入らないような街の名を言ってくるところからして、彼の話は偽りではないようだ。

何故吉祥寺なんて所に(注:別に吉祥寺に対して含むところがあるわけではない。)住むことになったのか、当然のことながら僕達は尋ねた。彼は自分の生い立ちについて語ってくれたのだが、「生まれはインドだけど、俺はインド人じゃない。」と言う。では何人なのかと問うと、「自分はチベタンだと」答えた。

インド北部にはダラムサラという土地があり、そこにはチベット亡命政府がある。一般のチベタンも多く住んでいるから、そこの出身かと尋ねると彼は

「いや、生まれたのはカルカッタだよ。」
 と、言う。

この答えにも僕は驚いた。カルカッタにチベタンが住んでいるなんてちっとも知らなかった。自分がこの前までカルカッタにいたこともあって、僕は彼にカルカッタの街についていろんな話を振ってみると彼は、

「17歳のときにカルカッタを出てから1度も帰っていないんだ。家族にもこの16年間会っていない。だから今のカルカッタがどうなっているのか全然知らないんだ。」
 と、申し訳なさそうに言い訳した。そしてこの答えから彼が現在33歳であることがわかった。

「16年間も何してたの?」
「この16年間、ほとんど海外で暮らしていたんだ。生まれはインドだけど中国・アメリカ・香港、そして日本で生活したよ。」
「それじゃ、日本語だけじゃなくて他の言葉も使えるの?」
「うん。ヒンドゥー語、中国語、英語に日本語ができるよ。俺はロクに学校にも行かなかったけど、語学だけはできる。おかげでいろんな社会について知ることができたし、仕事にも困らない。」
 事も無げに彼は答えた。



宿に帰って僕はチベタンの男性の語学力について考えていた。四カ国語を操れるなんて羨ましい限りだ。それにくらべて僕はといえば1ヶ月もインドにいるというのに、困ったことがあるとすぐに英語ができる人を探してしまい、知っているヒンドゥー語といえばボランティアのときに覚えた『尿瓶』とか、そんなものぐらいである。

「こんなんじゃいけない。」

 僕はM士クンやチベタンの男性に影響されて、にわかに語学に対する興味が湧いてきた。インドはもはや手遅れだとしても、次に行くパキスタンでは簡単な会話くらいできるようになりたいではないか。

「そうだ、ガイドブックで『パキスタン語』を予習しよう。」

 いつまでたっても英語頼みでは進歩が無い。僕は勉強する気満々でガイドブックを開き、パキスタン語に関するページを探してみた。しかし、何故だかパキスタン語の項目はなかなか見つからない。「おかしいな」と、思った僕はパキスタンの最初のページに戻ってみた。

「パキスタン・イスラム共和国。首都:イスラマバード。通貨:ルピー。言語:ウルドゥー語・・・」

「言語:ウルドゥー語」

ウルドゥー語? 僕は「パキスタン語」を勉強したいのであって、「ウルドゥー語」なんて言う、生まれてこのかた一度もその名を聞いたこともないような、わけのわからない言葉を勉強したいわけじゃない。そもそも「ウルドゥー」の意味さえわからないし、ガイドブックにも書いてない。とりあえず僕はパキスタン語は入国してから覚えることにして、その日は早々とベッドに入ることにした。


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