「マラリア・パニック」
〜 インド カルカッタ 〜

雨を見たのは本当に久しぶりのことだった。ネパールでもインドでも雨に降られたことは一度もなかったから、実にチベット以来のことである。もっともチベットではその標高のせいか、実際に降っていたのは雪だったので、中国以来というのが正確かもしれないが。

雨が降っていたのは半日だけだったのだが、僕等が滞在している宿のある「サダル・ストリート」を、まるで河川が氾濫したような状態にしてしまった。カルカッタは1000万人以上の人間が生活するインド第二の大都市であり、上下水道はそれなりに整備されているはずなのだが、サダルストリートに限っては何故か雨水が膝の高さまで達するほどに水没してしまい、歩くのにも苦労する有様だった。

僕はゲストハウスのドミトリーの窓から、そんなサダルストリート周辺の風景を眺めていた。こんな雨にもかかわらず、ストリートには学校や仕事のために行き来する人々がかなりいた。彼等は靴を脱いだり、ズボンの裾を捲り上げたりしながら苦労して歩いていた。それからもちろん、クルマやリクシャーも走っていた。リクシャーの多いインドのなかでも、行政の指導によりカルカッタにしかその存在を許されていないという、「人力」のリクシャー・ワーラーが日銭を稼ぐために客待ちしているのを見ながら僕は、

「物乞いや家の無い人達は、どうやってこの雨をやり過ごしているんだろう?」

 と思っていた。サダルストリート周辺にはカーリーガートほどではないが、スラム街の多いカルカッタだけにやはり物乞いはいる。僕等が普段ストリートを歩いていると、時々彼等から喜捨を求められたりするのだが、一度ある物乞いに喜捨してしまうと、その物乞いは僕等を見かけるごとに何度でも喜捨を求めてくるようになる。そんな物乞いに喜捨を求められる度に僕は、「こいつは困ったことになったな。」と感じることもしばしばあったけれど、子供を抱えた貧しい身なりの女性に、「この子は病気なのに、食べるものも薬も無い。」などとジェスチャーとカタコトの英語で言われてしまうと、ついポケットの小銭を渡してしまったりしていた。

ところが今、窓からストリートを観察していても、僕はそこにいつもの物乞い達の姿を見つけることができなかった。どこかの軒先で雨宿りしているのか、それとも彼等にも住む家があるのかどうか、僕にはわからなかった。

「彼等はどこへ行ってしまったんだろう?」

 そんな疑問を空から降る雨に尋ねてみても、もちろん雨音以外の何かが僕の耳に聴こえてくることはなかった。



雨の様子を眺めていると、宿の従業員が僕のところへやって来た。彼は中年のインド人男性で決して悪い男ではないのだが、半月以上ここに滞在していていても、用事があるとき以外彼が話しかけてきたことは無い。そういうタイプの男だった。きっと今度も何か僕に用事があるのだろう。

「すごい雨だね。」
 僕の方から声をかけてみた。
「いや、別にたいした雨じゃない。たった半日降っただけさ。この辺りは雨が降るといつもこうなるんだ。」
 なんでもないことのように彼は言った。 
「そうだね。君の言うとうり、たいした雨じゃないかもしれない。インドで雨を見たのは初めてだったんで勘違いしたみたいだ。」
 僕は弁解した。
「確かに。この季節に雨なんて本当に珍しい。」

ネパールと同じく11月の北インドは乾季の真っ最中で、雨はほとんど降らない。少なくともガイドブックには、そう書いてある。でも何事にも「例外」はあるわけで、世界中に無数にある例外のひとつのせいで、僕等は宿に閉じ込められているのだった。

「ところで、何か用事があるんじゃないのかい?」
 僕の方から彼に言った。用事があるなら早く聞いておきたい。
「うん。実はそろそろ宿代を払ってもらいたいんだ。」
「えっ?宿代はチェックアウトするときでいいって言ってなかったけ?」
 何かの用件で僕のところへやって来たのだろうとは思っていたが、まさか宿代のことだとは思わなかったので僕は驚いた。
「普通はそうなんだけどね。でもアンタはもう半月以上も宿泊しているから、このあたりで一度払ってもらいたいんだ。」
 宿の従業員が申し訳なさそうに言った。でも別に彼が「申し訳なさそうに」言う必要は無かったと思う。何故なら彼の言い分はもっともな内容だったのだから。

僕が宿泊している『センターポイント・ゲストハウス』の滞在者の国籍は様々だった。一番多かったのは韓国人のバックパッカー、そしてそれに次ぐのは日本人で、やはりバックパッカーだった。それ以外には隣国のバングラデシュから商用でカルカッタにやって来たビジネスマンが多く、変わったところではエチオピア人の留学生がいた。ヨーロピアンのバックパッカーはこの宿では少数派だった。そんな滞在者のなかで、半月以上もカルカッタにに滞在しているというツーリストは僕とキム以外にはなく、既に4年以上もカルカッタに滞在しているというエチオピア人の留学生を除けば、いつの間にか僕とキムが一番の古株になっていた。

カルカッタに到着した日にキムと一緒にこの宿に来たとき、宿代はチェックアウトの際で構わないという話を聞いていた。だが既に半月以上も滞在し、更にこれからどれくらい居続けるかもわからないとあっては、ゲストハウス側が「いったん宿代を払ってほしい」と僕等に言うのは十分に理解できることだった。

「わかったよ。今日中に一度宿代を払うよ。」
 僕がそう答えると、管理人の男は満足して自分の職務に戻っていった。



この季節外れの雨が降った日が「木曜日」であったことは、カルカッタに滞在するボランティアにとっては幸いだったと言える。何故なら「木曜日」は一週間のうちで唯一のマザーハウスの休日であるからだ。もちろん曜日にかかわらず施設は運営されているが、ボランティアの活動に限って言えば、木曜日はその仕事に参加できない決まりになっている。患者の世話は恐らくシスターや常駐のスタッフがやっているのだろう。

何故そういう決まりがあるのかまでは、僕は知らない。ボランティアの健康を気遣っているのかもしれないし、あるいは何か特別な行事があるのかもしれない。いずれにしても木曜日は僕等にとっては休日であり、そのおかげで僕等はこの雨の中をずぶ濡れになりながらカーリーガートまで出かけて行かずに済んだのだ。もしこれが他の曜日であったなら、僕等は患者の衣服よりも先ず自分達のそれを洗濯することになっただろう。

そういうわけでその日僕等は遅くまでベッドにいた。昼頃には起床したけれど、どこかに行くというような予定は無かった。せっかくの休日をドミトリーの中で過ごすのというのは、有意義とはとても言えないが、この雨ではそれも仕方の無いことである。

僕は同じドミトリーの日本人バックパッカーが買ってきた、『Nation』という英字新聞を読みながら暇をつぶしていた。けれどもそこには僕が時間をかけて読みたくなるような、面白そうな記事はあまり無かった。国際面には日本に関係する記事もひとつ載っていたが、その内容はサッカーの日本代表がホームにアルゼンチンを迎えて親善試合を行ったが、スコアレス(0 - 2)で敗れたというものだった。ワールドカップ後の『新生・日本代表』の未来は、窓の外に広がるカルカッタの空と同じくらいに怪しそうである。

新聞を読むのにも飽きてしまうと、他にしたいことは無かった。宿の従業員には仕事があるが、僕等はそうじゃない。マザーハウスが休日であり、雨のせいで観光も出来ないとくれば、僕等にはやることが無い。どうやらドミトリーの他の住人とハナシをするぐらいで今日は一日が終わりそうな雰囲気だ。



「カルカッタにはどれくらい滞在するつもり?」
 僕はH口クンに尋ねた。
「そんなに長くないと思う。もう随分前からカルカッタにいるからね。今回はただ宿を移っただけなんだ。」
 H口クンは答えた。

僕の退屈しのぎの相手をしてくれたのは、最近このゲストハウスに入ってきた、H口クンという20代後半の日本人だ。10月・11月という、日本人が旅行をするには中途半端なこの時期に何ヶ月もアジアを移動している彼は、やはり会社を辞めて旅に出たバックパッカーだった。こう表現すると彼は「人生のレールを外れて、海外放浪を始めてしまった。」典型的な日本人バックパッカーのように思えるが、けれども彼には僕がそれまでに出会ってきたそのような日本人バックパッカー達とは、一線を画していているところがあった。少なくとも僕にはそう思えた。

何故僕が彼についてそう思ったのかというと、それは彼の旅には明確な目的があったからである。僕の旅には目的と呼べそうなものは全くと言っていいほど無かったが、彼の旅にはそれがあった。彼は『写真』を勉強するために旅をしているのだった。

彼のハナシだと、普通写真を勉強しようと思ったら先ずは専門の学校に通ったり、もしくはプロのカメラマンに師事するのが一般的なやり方なのだそうだ。だが彼はそのどちらのやり方も選ばなかった。彼はそれをしない代わりに、一眼レフのカメラとフィルムをバックパックに詰め込み、日本を出たのだった。H口クン曰く、「この歳で会社を辞めてカメラを始めようっていうんだからね。普通のやり方じゃ駄目なんだよ。」とのことである。つまり彼は長期の旅に出る為に会社を辞めたわけではなく、写真の勉強をする「手段」としてバックッパッカーになったのだった。

「どうしてわざわざ宿を変えることにしたの?」
「マラリアから逃げてきたんだよ。」
「マラリアだって?」
 僕は驚いて訊き返した。
「ああ、『パラゴン』と『マリア』だけで、もう10人以上のツーリストがマラリアにやられてる。彼等には悪いけど伝染が怖かったからね。」
 H口クンはそう言って顔をしかめた。



『パラゴン』、『マリア』というのはサダルストリートにある、やはりバックパッカーが多く滞在する安宿で、僕が滞在しているセンターポイント・ゲストハウスからは歩いてほんの数分のところに位置している。そんなに身近な場所でマラリアが流行っているなんて僕は全然知らなかった。いや、僕に限らずセンターポイント・ゲストハウスに宿泊するツーリストの誰もが知らなかった。

マラリアはデング熱と並んでこの地域を旅するバックパッカーが最も恐れる病気のひとつである。良性のマラリアならそれほど神経質に考える必要もないのだが、熱帯性のマラリアだと命を落とすこともあり、決して侮ることはできない。

しかしながらこの病気は蚊を媒体として伝染するので、雨が降らず水溜りができにくい乾季には流行しにくいとも言われている。(水溜りは蚊が発生する温床になる。)そしてそのような認識を持っていたために、僕はマラリアに関しては完全に無関心だったのだ。

ところが今サダルストリートは雨のせいで水没しているから、マラリア蚊が発生する可能性は更に高まると考えられるし、H口クンのハナシでは実際に感染してしまったツーリストも複数いるわけで、今までのように全く無関心というわけにはいかないだろう。

しかしそんなH口クンのハナシを聞いた後でも、僕の頭の中には「まさか自分がそんな病気に罹るわけが・・・」という気持ちがあったのは事実である。結局のところ不幸というものは、自分の身に降りかかってきて初めて真剣に認識できるものなのだ。



僕が自分の体調の変化に気が付いたのは、それから数日後のことである。熱と咳が出始めたのだ。体温計で熱を測ってみると、平熱より少し高い程度だったので、最初のうちは単なる風邪だろうと思っていた。日本から持ってきた風邪薬を飲んで、一日安静にしていればすぐに熱も下がるだろうと思っていた。ところがそれを実行しても、翌日に僕の体調が良くなることはなかったのである。

体調は良くならなかったというよりも、むしろ悪くなっているような気がする。咳はいっそうひどくなるし、頭も割れるように痛くなってきたし、インドにいるというのに悪寒さえ感じるのだ。それでその朝、僕は昨日に続いてもう一度自分の体温を測ってみた。「いったい自分の身体はどうしちゃったんだろう?」と思いながら体温計が示した数値を見てみると、熱は39.2度だった。この数値を見たとき、ハッキリ言って僕はショックを受けた。大ショックと言ってもいいかもしれない。何故なら僕は今までの自分の人生において、そんなに高い熱が出たことはなかったからである。

僕が今までに高熱を出したことがないというのは、何も僕が『健康優良児的』な肉体を持っていて、「病気ひとつしたことがない。」ということを意味しているわけではない。僕だって日本では人並みに病気は経験したことがある。僕が39.2度という数値にそこまで驚いた理由は、僕の平熱にあるのだ。

実は僕の平熱は35.7度なのである。だから今まで風邪をひいてどんなに高い熱を出したとしても、38度くらいが最高だった。そういうわけで今、自分の体温が39.2度であるという事実は僕にとっては、『未知の領域』に入ったと言っても過言ではない。平熱が36度とか37度くらいの人間なら、40度以上に感じられるのではないだろうか?

39.2度という事実を知ってしまったことで、僕の気持ちも体調も更に沈んでしまったような気がする。「熱なんか測らなきゃよかった・・・」そんなことを考えながら僕は再びベッドにもぐりこんだ。周りの人間は皆半袖・短パンだというのに、僕はあまりにも寒気がするので、同じドミトリーのG樹クンという日本人から借りた寝袋に入ったうえに、毛布を被って臥せっている。まさかインドで寝袋の世話になるなんて思ってもみなかった。おまけに寝袋に入る程寒く感じているのに、何故か身体から汗がどんどん噴出してくる。これでは今日は木曜日じゃないけど、ボランティアは絶対に休みだ。当たり前のことだけど、とても他人の手助けをできる状態ではない。



昼間キム達が施設で働いている頃、僕はずっとドミトリーのベッドにいた。体調が良くなりそうな気が全くしない。もう一度風邪薬を飲もうかとも思ったが、ロクに食事もしていないのにいたずらに薬ばかりを飲むことはできない。それならば先に食事を摂るべきかとも考えたのだが、残念ながら歩いて外に出て行く体力も無ければ気力も無い。悪循環である。

普段僕達はサダルストリートにある、チョウメン(炒麺)やチャーハン(炒飯)といった中華料理を出す屋台で食事をすることが多かった。インドの屋台だけあってそこはおせじにも衛生的とは言えないし、特別美味しいというわけでもないのだが、インドのカレーに飽きていた僕達日本人やキムのような韓国人にとっては、安い値段で(炒麺=30円)東洋の料理が食べられるその屋台はとてもありがたい存在だった。

今もできればそこへ出向いて何とか食事をするのが早期回復のためにも良いと思うのだが、どうしても身体がいうことを聞いてくれない。ついでに言うと食欲も無い。

「マラリアに罹っちゃったのかな・・・。」

僕がそんなふうに考えるに至ってしまったのは、当然と言えば当然のなりゆきである。「日本で経験したことのない高熱」は、僕に「日本で経験したことのない病気」を連想させたし、悪寒というのはマラリアの症状としても一般的である。最近蚊に刺されたかどうかについてはハッキリとは断言できないが、この頃はずっと腕や脚を露出した格好で過ごしていたから、そういうこともあったかもしれない。だいたい数日前にH口クンから「マラリアが流行りだした。」というハナシを聞いたばかりである。

H口クンといえば、実は僕が体調を崩したころから彼も同じように体調を崩している。それだけなら別にどうと言うこともないのだが、なんと彼の症状が僕とそっくりなのである。彼はマラリアに罹った病人が複数いるゲストハウスから移ってきたことを、僕は忘れてはいなかった。これでは自分がマラリアに罹ったとしてもなんら不思議ではない。

H口クンの症状は僕と似ていてたのだが、彼の場合はもっと深刻だった。咳や熱については僕と同じなのだが、彼はそれに加えて「下痢」の症状も出ていたのだ。



その日の夕方、僕やキムと同じくマザーハウスで働いているH厚クンという日本人が、僕が食事も摂らずにベッドに臥せっているのを見かねて、わざわざバナナを買ってきてくれた。食欲のない今の僕にとって、バナナは最適な食事だった。僕が礼を言って金を払おうとすると彼は

「そんなに高いものじゃないから。」
 と言って、受け取らない。その代わりに彼は
「それより医者に行ったほうがいいんじゃない?」
 と、忠告してくれる。実に的を得た忠告である。

医者に行くのはかまわないのだが、問題はそこまで歩けるかどうかだ。僕がそのことを言うと、ドミトリーのみんなが付き添ってくれると言ってくれた。「もし歩けなかったら、おぶって行ってあげるよ。」とまで言ってくれた。このときばかりは思わず涙が出そうなくらいに感動した。

結局、キムにH厚クンとG樹クン、あとH仁クンという日本人が病院まで付き添ってくれることになった。いい大人が病院へ行くのに付き添いが必要というのは情けない限りだが、この際恥ずかしいとか言っていられない。

そろそろ陽も落ちかけようかという時間帯に、僕達はフリースクール・ストリート沿いにある大きな病院に行ってみることにした。サダル・ストリートからも近かったので、僕も以前に何度かその前を通ったことがあり、近代的な外観のビルディングには安心感が感じられたからである。

ビルディング正面のガラスドアを押し、僕等は中に入る。付き添いの誰かが受付で診察の申し込みをしてくれているようだ。そして受付から戻ってきて、困った表情で言う。

「ダメだって。今、ドクターがいないんだって。」
「いないって・・・、こんな大病院で?」
「うん。受付ではそう言ってる。」

こんな大きな病院でドクターがいないなんてことがあるのだろうか?それとも僕達が外国人だからだろうか?あるいは身なりがいかにもバックパッカー的だからだろうか?理由はわからないが、とにかく診察は受けられないらしい。せっかく頑張って歩いてきたというのに、僕達はガッカリだった。一番ガッカリしていたのは、もちろん僕だと思う。

それから病院を出て、他にあての無い僕達がいったん宿に帰ろうと重い足取りでストリートを歩いていたとき、偶然にも(偶然なんだろうな)そこでいつもの物乞達の一人が声をかけてきたのである。数日前の雨以来、彼等はずっと姿を消していたのに、まさかこんなときにバッタリ会うなんて。

「今忙しいからダメ。この人が病気で、病院を探しているんだ。」
 いつものように喜捨を求めてきた物乞いの男に、付き添いの誰かが言う。すると
「病院?病院なら知ってるぞ。」
 物乞いの男は、「ついて来い」という表情で歩き出す。僕達は迷わず物乞いの後を追いかけた。これで本当に病院に辿り着けたなら、彼には今後毎日喜捨しても構わない。もし辿り着けなかったら、(ヒンドゥー教的見地から言って)「前世の報い」ということで彼は来世も物乞いだろう。

物乞いはストリートから細い路地に入って奥へと進み、更に数回角を折れて僕達を自分が「知っているぞ」という病院へと案内してくれた。そこはさきほどの大病院と比べると、病院というよりは『町の診療所』と言った方が表現として正確かもしれなかったが、確かに病院には違いなかった。

僕達が診療所へ入ろうとすると、物乞いの男が再度喜捨を要求してきた。誰かが小銭を渡したのだが、物乞いは「少ない」と言って更に要求してきた。今回は診療所の場所を教えてくれたこともあったから、「喜捨」というよりは「手数料」ということで誰かが追加して払ってくれた。

診療所には小さいながらも待合室があり、僕は地元のインド人に混じって順番待ちをした後、呼び出されて診察室に入る。歩き疲れて既にグッタリしていた僕は仲間に一緒に入ってもらおうと思ったのだが、何故だかそれはドクターに断られてしまう。そして診察が始まった。

まず症状を聞かれたが、英語でそれを説明するのは辛い作業だった。普段ならなんてことないことだけど、朦朧とした頭では「熱があって、39.2度なんです。咳が止まらなくて、寒気もするんです。」というそれだけの文章を日本語から英語にするのもやっかいだ。それでもなんとか

「I have a fever, thirtynine points two degrees. I can’t stop coughing and   have got chills.」

 という初級英会話の参考書に出てきそうなフレーズを吐き出すと、ドクターは頷いてくれ、それから僕に上半身を脱いでベッドに横になるように指示する。英語が通じてよかった。ヒンドゥー語で話せと言われたら、もう絶対に無理だ。

ドクターは僕の身体を触診したり、聴診器を当てたりする。それが終わると僕に服を着るように言って、カルテを書き始めた。それを待ちきれずに僕は

「風邪なんでしょうか?それともマラリアなんでしょうか?」
 先に尋ねてしまった。
「詳しく検査しないと、よくわからない。もっと『大きな病院』に行って血液検査をしたほうがいい。」
 と、ドクターは言う。それじゃ困るんだけど・・・。

ドクターは『大きな病院』への紹介状を書いてくれ、病院の場所を描いた地図と、薬の処方箋を合わせて渡してくれた。症状が「よくわからない」のに、どうして薬が処方できるのだろうと思いながらも、僕は請求された150ルピー(390円)を支払って診察室を出た。診療所を出た後、医者に書いてもらった処方箋をストリートの薬局に持ち込み、薬を買って宿へ帰った。

「死んじゃうのかな・・・。よりによってインドなんかで・・・。」

宿に帰って買ってきた薬を飲み、僕は再びベッドに入った。それから僕は「死んじゃうのかな・・・」という大げさな思い込みと、「インドなんかで・・・」なんていうインドに対して随分と失礼な思いを頭の中で巡らせる。何しろ医者が「よくわからない。」と、言うくらいである。海外での得体の知れない病気に直面し、僕はすっかり弱気になっていたのだ。



翌朝目が覚めたとき、僕は自分の身体が軽くなっているのを感じた。上半身は汗びっしょりだったが、不思議と不快な気分がしなかった。熱を測ってみると、信じられないことにあんなに高かった熱が36度台前半まで下がっている。「死にそうだ・・・」なって言っていた昨日の状態がウソのようである。

僕はベッドから起き、ドミトリーにいた人間に「急に体調が良くなった。」ことを伝えた。あまりにも急に良くなったので、自分でもビックリしているとも伝えた。すると、

「それはインドの薬のおかげだよ。」

 と、誰かが言った。なんでもインドの解熱剤は強力なことで有名で、高熱を簡単に下げてしまうほどの威力があるとのこと。ただし、その代償として副作用を引き起こすことも多いようで、いわゆる諸刃の剣なのだそうだ。

「俺も飲んだことあるけど、あれはもうほとんどシャブだよ。間違いないね。」
 彼は続いて言った。

言われてみれば、僕が日本から持ってきた風邪薬にも下熱効果があるはずなのだが、全くと言っていいほど効かなかった。それに比べれば一夜でここまで熱を下げてしまうインドの薬は、確かに薬のレベルを超えている気がする。日本ではこれほど強力な薬剤の処方は許されないだろう。

いずれにしても熱が下がったのは紛れも無い事実である。副作用に関しては今後どうなるかわからないが、今の僕にはベッドにうずくまりながら高熱にうなされ、また寒さを感じながらダラダラ汗を流すという状況から抜け出せたことが何よりも嬉しかった。

午後、僕は町医者が書いてくれた紹介状を持って、血液検査が受けられる「Eastern Diagnostics」という大病院へと足を運んだ。熱が下がったのだから、もう別に行く必要も無いのではとも思ったのだが、マラリアは一応伝染病だから罹っていたら自分だけの問題じゃ済まないし、そうなったら部屋もシングルに移らないといけない。それに紹介状だって150ルピーかかっているんだから、この際受けておこうと考えたのだ。

そして町医者が紹介状と一緒に渡してくれた地図を見ながら目的地へと到着すると、なんとそこは昨日、「今はドクターがいない。」と、診察を断られた大病院だった。僕は、「また断られるなんてことがなきゃいいけど・・・。」と、すっかり病院不信に陥った気持ちを抱えながらも受付へ行き、「血液検査を受けたいのですが。」と、伝えた。もちろん、紹介状を見せることも忘れなかった。しつこいけれど、なにしろ150ルピーもかかったのだから。

昨日はけんもほろろに断られた僕だったが、今日はなんの問題もなく検査を受けることができた。ひょっとしたらこれは紹介状の効果かもしれない。血液検査の代金は370ルピー(960円)と、決して安くはなかったけれど、まあ設備も日本の病院と変わらないくらいにしっかりしていたし、まさか「高いので、やっぱり止めます。」なんて言えるわけが無い。ましてや値切るなんて論外だ。

「検査の結果はいつ出るのでしょうか?」
 帰り際に僕は尋ねてみた。
「明日の夜です。」
 受付の女性は簡潔に答えた。それ以外には、『お疲れ様でした』の一言もなければ、『お大事に』とも言われなかった。

宿に帰ると、H口クンも血液検査を受けていたことがわかった。彼はとても出歩くことができなかったので、宿まで医者に来てもらって、ドミトリーで検査をしたのだそうだ。ナイフで指を切り、流れ出た血液を採取するという、なかなか豪快な方法だったようだ。



翌日の夜、僕は検査結果を教えてもらいに再び病院を訪れた。受付へ行ってその旨を伝えると、僕は一通の封筒を手渡された。検査に関する説明は一切無かった。とりあえず僕は病院を出て、すぐに封筒を開けてみた。

封筒を開くと、中には『Report On The Examination Of Blood』という用紙が入っていた。そこにはまずヘモグロビンや赤血球・白血球についての記載があったが、それらは読み飛ばして僕はマラリアに関する項目を探した。そしてレポートの一番最後に、『Malarial Parasite』という項目を見つけた僕は、緊張しながらその検査結果に目を通した。検査結果はたった五つの英単語で構成された短い文章だった。

「No malarial parasite is found.」(マラリア原虫は発見されていません。)

その一文は文章としてはあまりにも素っ気無い表現だったが、僕を安堵させるには十分な内容だった。結局マラリアには罹っていなかったのだ。それと同時に、「ではあの高熱の原因はいったい何だったのだろう?」という当然の疑問も湧いたのだが、「自分がマラリアに罹っていなかった。」という嬉しさのあまり、そんな疑問はすぐに忘れ去ってしまった。多分、長旅や仕事の疲れが一気に出て、そのせいで発熱したのだろう。それぐらいしか考えられない。

宿に帰り、ドミトリーで血液検査のレポートを見せると、皆とても喜んでくれた。僕の病気ついては皆けっこう心配してくれていたし、これでマラリアが僕から他の人間へ伝染していくという心配もなくなったのだから。個人的にはシングルルームに移る必要も無くなったのも嬉しかった。

更によかったのは、H口クンの血液検査もシロの判定が出たことだった。僕と同じくインドの薬を飲んで、彼もだいぶ熱が下がったとのこと。ただ彼の場合は容態が完全に回復したわけではないのが少し気がかりである。



血液検査の結果が出た更に数日後、僕はボランティアの仕事を再開することにした。再開初日の朝六時半、ボランティアへ行く僕とH厚クン、そしてキムはカルカッタを離れるH口クンと別れの挨拶をしていた。

「残念だけど、タイに戻ることにしたよ。バンコクならキャッシュレスで入院できる病院もあるからね。インドに居る限り、身体が完全には治ることはないと思うんだ。」
 H口クンは血色の良くない表情で、無念そうに説明した。
「バンコクまで気を付けて。」
 僕達は言った。

ゲストハウスの入口で僕達はH口クンと握手をし、そこで別れることになった。そしてH口クンは「バンコク行き」の飛行機が離陸するダムダム空港へ行き、僕達は「死を待つ人の家」の施設へと向かうのだった。


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