「死を待つ人の家(後編)」
〜 インド カルカッタ 〜

ニルマル・ヒルダイで働き始めてから、もう二週間が過ぎた。最初は驚きと緊張の連続だった僕も、今ではさすがに施設にも仕事にも慣れることができるようになった。洗濯のせいでボロボロになってしまった両手もすぐに回復し、今では100人分の衣類を洗濯しても全く問題ないくらいに両手の皮膚も強くなったと思う。もっともこんなに速く回復できたのは、僕の自然治癒力のためではなく、セバスチャンのおかげなのだが。

セバスチャンは僕やキムと同じドミトリーに滞在しているドイツ人男性だ。彼もマザーハウスでボランティアをしているのだが、彼は僕等とは違って「障害者の家」という別の施設で働いている。彼は僕等にマザーハウスの本部の場所やボランティアの登録手続きについて教えてくれたり、滞在している宿がある「サダルストリート」周辺を案内してくれたりと、僕等にとってはとても面倒見の良い親切な男である。

ニルマル・ヒルダイでの初日の夜にも、僕がドミトリーで皮膚が剥けてしまった両手を見せると、

「毎日何回かこれを塗っていれば、数日で良くなるよ。」

と言って、ドイツ製の軟膏を僕にくれたのだった。そしてそのとうりにしていると、あんなに酷かった両手の痛みがウソの様に和らいだのだ。そして両手が完全に直ったときには

「これで思いっきり洗濯できるな。」

と、思ってセバスチャンの親切に感謝していたのである。で、それから二週間経過した今僕が、当初の期待どうりに「思いっきり洗濯」しているのかというと、実はそんなことはなかった。僕は洗濯ではなく、別の仕事をメインにこなすようになっていたのである。

では僕はどんな内容の仕事をしているのかというと、それは患者の「介護」というのが、適当な表現だと思う。僕が働いている施設には約50人の男性患者がいるのだが、彼等の容態は皆全く同じというわけではなく、それぞれが微妙に違っている。「死を待つ人の家」という施設の通称からも想像できるように、ここにいるのは重症の病人がほとんどなのだが、そういった重症の患者を「最も酷い重症患者」と、彼等と較べると「まだマシな重症患者」の二つに区別することができる。「まだマシな重症患者」という表現が正しいのかどうか自分でも疑問なのだが、それ以外に上手い説明が思いつかない。

それでも事例をあげて説明すると、こういうことである。後者の患者の場合は自力で手足が動かせるので、例えば僕達がベッドまで食事を運びさえすれば、あとは彼等自身でその食事を摂ることができる。ところが前者の患者の場合となると、ほとんど「寝たきり」同然なので、自分の力では指一本動かす事さえも難しい。もちろん、自力で食事を摂るなんて全く不可能な事である。

だから誰かが彼等の為に料理を食べさせてあげたり、水を飲ませてあげたり、着替えさせてあげたり、またときにはマッサージしてあげたりしなければならず、そしてそれはボランティアである僕達の重要な仕事だった。もちろん洗濯も食器洗いも大切な仕事だけれど、それらはこの施設で働き始めて間もない(あるいは事情があって短期間しか働けない)ボランティアが担当し、「介護」の仕事はある程度施設に慣れているボランティアが担当するというケースが多かった。

何故そういう仕事の分担になってしまうかについては、それなりの理由があったと僕は思う。それは多分、メンタル面の問題である。僕自身もそうだったのだが、初めてこの施設にやって来た人間は、どうしても多かれ少なかれ皆ショックを受けてしまう。ほとんどのボランティアはマザーハウスの本部で、「死を待つ人の家」がどういう場所なのかについて説明を受けてからここへやって来るのだが、言葉と資料を使っての説明を受けただけでこの施設の現実を想像できる人間は皆無に近い。実際施設に来たものの、その雰囲気や患者の姿にショックを受けてしまい、一日働いたきりで辞めてしまう者だっているぐらいである。そういったまだ施設に馴染んでいないボランティアが、いきなり「死を間近にひかえた人間」の介護をするのは、やはり難しいことだと思う。

僕の場合もやはり最初の頃は、洗濯や食器洗いの仕事を中心にやっていた。患者と接するのは食事を「配膳」するときぐらいのものだった。それでも二週間も毎日施設に通っていると、さすがに常駐のスタッフにも顔を覚えられたり、声をかけられたりするようになり、徐々に洗濯以外の仕事もするようになっていったのである。

常駐のスタッフ達は皆、僕のことを「ブラザー」と呼ぶ。

「ブラザー、28番を着替えさせてやってくれ。」
「ブラザー、42番をシャワー室に運んでほしいんだ。」

そんなふうに僕は声をかけられる。もっともこれは僕に限ったことではなく、この施設で働く男性のボランティアは全て、「ブラザー」と呼ばれている。たぶん、「よう兄弟!」みたいな意味合いで使っているのだと思うけど、直訳してしまうとなんだか仁侠映画に出てくる下っ端ヤクザになってしまったような、こっ恥ずかしい気持ちがしてしまう。まあそれでも患者のように「15番」とか「36番」とか、番号で呼ばれるよりはもちろんずっとマシだけれど。

そんなわけで僕は今では患者の「食事」「シャワー」「着替え」から「下の世話」まで、本当に何でもやっている。いや、やっていると言うよりは、慣れない仕事で毎日悪戦苦闘していると言ったほうが本当は正確かもしれない。

「ブラザー、この患者は自分で身体を動かせないから食事を手伝ってやってくれ。普通の食事は喉を通りにくいから、この魚の骨を全て取り除いてから細かくちぎって患者の口に入れてあげてるんだ。あと時々ミルクを飲ませてあげてほしいんだけど、自分では飲めないから、このポットを使って口の中に流し込んでくれ。」

そんなことを言われても、僕は日本で介護の仕事したことなんてないし、独身だから赤ん坊の世話すらやったことがない。でも、だからといって誰かが教えてくれるわけでもないので、もう自己流でやっていく。そんな人間に介護される患者には本当に申し訳ないと思う。僕はベッドで横になっている患者の上半身を抱え上げ、言われたとうり骨を除き魚肉の部分だけを小さくしてする。そして「左手」で食べ物を掴まないように注意しながら、患者の口へと入れていく。インドで左手は『不浄』とされているので、うっかり左手で食べ物を口に運んだりすると、患者は食べてくれないのだ。

「ブラザー、あの患者が小便をしたいと言っているから頼む。尿瓶はシャワー室の横にある。」

ただ尿瓶を取ってくるだけならいいのだが、相手は自分で身体を動かせない患者だから、それだけでは終わらない。やはりこれも僕が手伝わないといけないのだが、当然のことながら他人の排泄を手伝った経験も僕には無かった。それでも同じ男性として「用を足す」ときにはどうするのかはわかっているので、自分が相手の立場だったらどうしてもらえばやりやすいかを考えながら、何とかやっていた。

こんな感じで四苦八苦しながら僕は介護の仕事を続けていた。ちゃんとできているのかと問われれば僕は首をかしげることしかできないけれど、それでも回数をこなすごとに段々と上達していったと思う。そしてそのポイントは「言葉」にあるのだと、僕は思っていた。

患者とコミュニケーションを取るのに必要なので、僕は幾つかのヒンディーの単語を覚えることになった。例えば、ヒンドゥー語(ベンガル語)では『水』を「バーニー」と言い、『飲む』ことを「ピナ」と言う。また、『食べ物』のことを「カバル」と言い、『食べる』ことは「ランナ」と言った。だから僕は

「バーニー、ピナ?」(水が飲みたいの?)

 とか、

「カバル、ランナ?」(ご飯食べれるかい?)

 といった感じで文法はきっとメチャクチャというか、無いにも等しかったけど、ジェスチャーを交えながら話すと何とか意思の疎通ができた。もちろんそれは付け焼刃のレベルを出ないものだったが、それでも何も知らなかった頃に較べると介護の仕事は随分やり易くなった。

自分で用を足すことのできない患者の「下の世話」をするのにも、「ペシャップ(尿瓶)」という言葉を覚えたことが役に立った。語学としてのヒンドゥー語を学んだ経験のある日本人は世の中に結構いるのかもしれないが、それでも「尿瓶」というヒンドゥー単語を知っている人間に限っていえば、それほど多くはいないはずだ。そういう意味ではボランティアの仕事は僕等にとっても有益だったと言える。ただ、そのような言葉を知っているからといって、自分のインドでの旅に役立つのかというと、さすがにそれはちょっと無理そうだったけど。



それから僕が施設で慣れたのは、仕事だけではなかった。同じボランティアとして働く他の外国人達とも、日が経つにつれて仲良くなっていった。ここで働くボランティア達は、マザーハウスで働くことを目的としてカルカッタへやって来たというキムの様なクリスチャンだったり、旅の途中ながら「たまたま、何かのきっかけで始めることにした」という欧米人バックパッカーだったり、あるいは旅行会社が主催する短期間の「ボランティア体験ツアー」に参加してやって来ている日本の社会人だったりと、人種も国籍も宗教も(そして職業も年齢も性別も)それぞれ違う、コスモポリタンな集団だった。

でも動機が何であれ、働き始めてしまえばどのボランティアも立場は全く同じだ。(当然だけど、)上司と部下の上下関係とか、面倒な派閥争いというようなことも無い。僕は旅に出る前、日本で会社員をしていたけれど、そこには外国人の従業員なんていなかったから、彼等と一緒に仕事をすることは僕にとっては新鮮で、かつ貴重な経験だった。

彼等とは英語を使って話をした。仕事仲間はフランス人だったり、アイルランド人だったり(あるいはイタリア人だったり、アメリカ人だったり)と本当に多様だったが、大抵の欧米人は(たとえ母国語が英語でなかったとしても、)僕よりも上手な英語を話した。僕の英語力で彼等と会話をするのは少々厳しかったけれど、少ない語彙をフル活用して何とかコミュニケーションを取っていた。

特に休憩時間はコミュニケーションを深めるには絶好の時間であり、また楽しい時間でもあった。『死を待つ人の家』では午前中の10時頃に短い休憩を挟むのだが、その時間、僕達は仕事の事を忘れてリラックスし、施設がボランティアの為に出してくれた熱いチャイ(インド風ミルクティー)やビスケットを口にしながら、キリスト像の下で自分達の国についての話をしたり、くだらない冗談を言い合ったりした。そういう時間を何度も過ごしていると、最初はお互い遠慮がちに振舞っていた関係も、だんだんとフレンドリーに接する間柄になっていった。すると自然に仕事の面でも助け合うようになり、いろんな作業がスムーズに運んで、効率も良くなっていった。

仕事にしても仲間にしても、今では何の問題も無いと思えるそんな僕のボランティア生活だったが、それでも僕にはいつまでたっても慣れることのできないことが、たったひとつあった。そしてそれは僕がカルカッタに滞在している間中、ずっと心の片隅にひっかかったままだった。

「死を待つ人の家」という性格上、施設には霊安室が備え付けられていているのだが、僕達がここで作業をしていると、その霊安室から遺体がタンカに載せられて運び出されるていくのを、数日おきに(時には何日も続けて)見ることになった。僕は布にくるまれた遺体が施設を出て行く度に、いたたまれない気持ちでそれを見送っていた。そう、僕が慣れることが出来なかったのは患者の「死」であった。

施設での毎朝、僕には祈りの時間の前に必ずする習慣がある。それは『黒板』を確認することだ。黒板というのは「今日の収容人員」を示す数値が書き込まれたボードである。そこには「男48・女49」といったふうに、白いチョークで患者の人数が書き込まれている。その数字はいつも同じというわけではなく、「男50・女48」という日があれば、「男49・女50」という日もあり、日によって違う。例えば前日に「男49・女49」だったものが、その翌朝施設に着いたときに「男50・女49」となっていると、

「新しい男の患者が連れて来られたんだな。」

 と思い、それが逆に「男48・女48」となっていたりした場合には、

「昨日は二人亡くなったのか・・・。」

 と思いながら仕事に取り掛かっていた。まれに数字に変化が無い日もあったが、だからといって施設で死人が出なかったとは限らない。患者が一人亡くなった日に新しい患者がまた一人入ってくることもあるから、そういう日にはたとえ死人が出ていたとしても黒板の「数字」は変わらない。でも数字は変わらなくても、貧困と病気に苦しんできた人間がこの世界から一人いなくなり、やはり貧困と病気に苦しんでいる一人の人間が僕等の前に現れたという確実な「変化」が、実際にはそこにあるのだ。

男性の部屋で仕事をしながら、ひとつだけポッカリと空いているベッドが目に入ると、

「あのベッドにいた患者が死んでしまったんだな・・・。」

 と、センチメンタルな気持ちになったりしたものだった。特にそのベッドに居た患者が、「自分が介護した人間」だった場合には、なおさらのことだった。昨日まで自分が食事を摂らせてあげたり、水を飲ませてあげたりした人間が死んでしまうと、言いようの無い脱力感に捕らわれた。患者の病状を考えればいつ死んだって驚くべきことではないのかもしれないが、やっぱりやりきれない気持ちになってしまう。気分が滅入ったときには、

「僕が何か間違ったことをしてしまったんだろうか?」

 なんていう、根拠の無い過剰な自意識を持ってしまったことさえあった。

だけど、そういった想いはそれほど長くは続かなかった。何故なら空いたベッドはその翌日か、遅くとも二日後には新たに入ってきた患者のものになり、「死ぬのを待つばかり」という人間でベッドがうまるという、この施設の「通常」の状態になったからだ。(インドでは、「死ぬのを待つばかり」という人々の数に困ってはいないのだ。)そうなるとどうしても新しい患者の方が気になりだすし(「この患者はどういう病気なんだろう?」あるいは「どんな人生を送ってきたんだろう?」など)、そんなことを考えながら毎日働いていると、今までそこにいた患者の印象は僕の中で次第に薄まっていってしまったのだ。冷たい言い方かもしれないけれど。

でも、死者について「忘れていくこと」と、「慣れてしまうこと」は同一ではなかった。僕は施設で死んでいった人間達の顔や声をいつまでも覚えていることは無かったが、だからといって患者が死んだときに、それを気にも留めなくなるというようなことにはならなかった。一人の患者が亡くなるごとに、やはりその都度ショックを受けた。自分がこの施設でいつまで働くことになるのか全くわからないけど、どれだけ長く働いたとしてもその一点については、多分いつまでも変わらないだろうと思う。



ある日、ドミトリーのテラスでセバスチャンとボランティアについて話をしたことがあった。

「今日も施設で一人亡くなったんだ。」
「ニルマル・ヒルダイかい?」
 セバスチャンの問いに
「うん。」
 と僕は頷いた。すると

「KOG、あんまり深刻に考えない方がいい。『死を待つ人の家』っていうくらいだから、人が死ぬのは当然のことなんだ。もうすぐ死ぬっていう人間ばかり集めているんだから。」
 僕を諭すようにセバスチャンは言った。

「もちろん、それは僕だってわかっているよ。ただ、少し戸惑っているだけだよ。」
 そう僕は答えたものの、セバスチャンは納得したようには見えなかった。

「ねえKOG、この際『死を待つ人の家』っていうのは忘れて、『大きな病院』で働いているって考えるのはどうだろう?」
 セバスチャンが言う。
「それは・・・どういう意味だい?」
「日本にもドイツにも大きな病院があるだろう?患者が何百人も入院しているような総合病院さ。そういう病院なら、毎日誰かしら死ぬものさ。そこで働いていると思えば、人が死ぬことなんて『当たり前のこと』だと思えるようになるんじゃないか?」
 セバスチャンが答えた。

セバスチャンの言うことに一理あるのは認めるし、彼が親切心で僕のためにそう言っくれているのもわかったが、それでも僕は彼の意見に全面的に賛同することはできなかった。

では、「どんな心構えで働くべきなのか」という自分の疑問について、その答えを自分自身で見つけることができるのかというと、今の僕にはそれも難しそうだった。

「今はただ、一生懸命働こう。」

ドミトリーのテラスからカルタッタの夕暮れを見ながら、僕はそう思っていた。

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