「死を待つ人の家(中編)」
〜 インド カルカッタ 〜

「清らかな心」という意味のニルマル・ヒルダイが、どうして『死を待つ人の家』などという、施設に命名するにしてはいささかネガティブな通称で呼ばれているのかというと、これはもう本当に単純な理由である。そこに収容されているほぼ全ての人々が、「死ぬのを待つばかり」という状態の人間だからだ。

昨日マザーハウスの本部で見せてもらった資料には、この施設に収容されている人間はおよそ100名(男性50名・女性50名)で、そのほとんどが瀕死の重病人である ― と、書いてあった。結核、脳膜炎、栄養失調、マラリア・・・とその病名は様々だが、いずれも日本では(もしくは先進国では)あまり罹らない病気が多い。

インドでこのような大病を患うと、(それが貧しくて医者に掛ることができない低カーストの人間の場合、)その家族によって路上に棄てられることになる。家族の生活に回復する見込みの無い人間を養う余裕はないし、一緒にいると伝染する可能性も高いからだ。

そしてそのようにして路上に放置された人間を集めては介護しているのがニルマル・ヒルダイである。マザー・テレサはインドのなかでも最も貧しく傷ついた人々に、「せめて死ぬときくらいは人間らしく・・・」と思い立ち、この施設を設立したとされている。

個人的には、こういうことはマザー・テレサよりも真っ先にインド政府がやらなきゃならないことなんじゃないだろうか?と、思ってしまう。インドは決してお金の無い国じゃない。核開発を行ったり、原子力潜水艦を所持するためにお金を使うよりも、路上に横たわる人々のためにお金を使う方がよっぽど正しいお金の使い道じゃないかと僕は思うのだけれど、まあこれにも宗教とか人口問題とか、きっといろいろとインドなりの複雑な事情があるのだろう。

そんな『死を待つ人の家』では朝8時からボランティアの仕事が始まる・・・わけではなかった。施設で最初に僕達がしたことと言えば、それは意外にも仕事ではなかった。では何をしたのかというと、それは「神に祈る」ことだった。

仕事を始める前にイエス・キリスト像の前にボランティア全員が集まり、祈りの言葉を唱和するのがこの施設での決まりであるらしい。だがあいにくと僕はクリスチャンではないし、信仰心というものも持ち合わせていない人間である。そんな人間の祈りが神に届くとは到底思えないのだが、「郷に行っては郷に従え」という言葉もあるし、周りのボランティアに倣って僕も祈っていた。何だか不思議な気持ちだった。

祈りの時間が終わって、そこではじめて僕達は仕事に取り掛かる。ボランティアの最初の仕事は患者に対する朝食の配膳から始まる。あらかじめ常駐のスタッフが作っておいた料理を、ベッドで待つ患者へと運ぶのである。

患者 ― 彼等は男性用、女性用のそれぞれの部屋に分けられている。部屋の壁には1から50までの番号が振られてあり、番号の前には簡易ベッドがずらりと並べられ、ほとんどの患者はそこで毛布に包まりながら寝たきりになっていた。患者の身体は痩せこけ、目は虚ろで、表情には生気が全く無かった。いや、その前に表情そのものが無かったと言ってもいいかもしれない。

僕はその部屋を見たとき、本当に強いショックを受けた。僕にはそこが介護施設というよりも、戦争避難民のキャンプか野戦病院にしか思えなかった。そんな部屋を(あるいは患者を)自分の目で見るという経験は、僕の今までの人生には無いことだった。

料理が盛られた皿と水の入ったコップを初めて彼等のベッドに運んだとき、僕はかなり緊張していた。僕が恐る恐るベッドの横に皿とコップを置いても、患者はそれに全く気付かなかった。患者が起きているのか寝ているのか、僕には全くわからなかった。いや、患者が呼吸をしているのか、していないのか、それさえも僕にはわからなかった。困惑していた僕がベッドに横たわっている患者を軽く叩くと(何故か声をかけることができなかった)、彼はピクリと肩を動かし、それから皿に目をやった。彼の虚ろな目に料理が映っているのを確認した僕は、足早にベッドから離れた。

そんな一連の行動を他のボランティアと一緒に、僕は何度も繰り返していた。

食事の時間が終わると、ボランティアは二手に分かれて次の仕事に移る。仕事のひとつは食器洗いで、もうひとつは洗濯なのだが、僕は迷わず洗濯の方を選んだ。何しろ洗濯は長期旅行者である僕にとって数少ない楽しみのひとつであり、得意分野でもあるからだ・・・と、言いたいところだったが、患者への配膳でショックを受けていたそのときの僕に、洗濯を楽しむ余裕はゼロに等しかった。

それでも何とか気を取り直して洗濯に取り掛かったのたが、僕はこの洗濯にも少々驚かされることになった。施設には洗濯機というものが無いので、洗濯は全て手作業で行われる。それ自体は別に驚くことでもないのだが、問題はその分量だった。何しろマザーハウスに収容されている人間はおよそ100人。その全ての人間のシャツとパンツ、そしてシーツに毛布を全て人力で洗濯するのだ。

手順としては洗浄、消毒、脱水という流れなのだが、僕達はこれを分担して行った。

1、まず洗浄液の入った1メートル四方くらいある巨大な洗濯層に汚れ物をドサッと放り込む。それを竿でグルグルとかき回し、衣類に洗浄液を染み込ませる。そしてそれを取り出し、洗う。洗うのは手作業と言っても、実際に僕達が使っていたのは「足」だった。あまりにも分量が多いので、まとめた洗濯物の上でステップを踏むようにして洗っていた。

2、その次に消毒である。消毒液に軽く浸けるだけなのだが、インドの衛生環境を考えると、これは感心すべきことだと思った。もっとも自分の洗濯においては、消毒のことなんて考えたこともなかったけれど。

3、そして最後に脱水。脱水といっても、要は自分の手でかたく絞るだけである。毛布などの大きなものは数人がかりで絞った。

「濯ぎ」などの作業もあるが、大まかに説明すると以上が洗濯の流れである。いずれの行程も、何度かやればすぐに覚えられる内容だ。

洗い終えた洗濯物は、すぐに施設の屋上にある物干し場に運ぶ。でも、物干し場のスペースはそれほど広くないので、100人分の洗濯物の全てをそこに干すことはできない。ではどうするのかというと、「屋根」を利用するのである。

ニルマル・ヒルダイの施設は寺院の一部を改装して造られたものなのだが、その最上部はトタン屋根になっている。屋根は日差しを受けてかなり熱を持っていたから、そこに敷いておくと、物干しに掛けておくよりも速く乾いてしまうぐらいだった。時々、野良猫が洗濯物の上を歩いているのを見かけたときもあったが、そんなときは(野良猫には悪いけれど、)遠慮なく追い払った。

「まるで、テネシー・ウィリアムズの戯曲のタイトルみたいだな。(『やけたトタン屋根の上の猫』)」

そんなつまらない事を考えながら、僕は絞り上げられた洗濯物をパタパタと振って引き伸ばしては、黙々と屋根の上に並べていた。日差しを受けながら作業をしていると、額から汗が噴き出しては流れていくのが自分でもよくわかった。僕はスポーツや肉体労働で「爽快」な汗を流すのは嫌いじゃないのだが、「暑さ」のために汗を流すのはあまり心地よい感覚ではなかった。

洗濯しては干す、という作業を続けていると、時間はいつしか正午になっていた。正午から3時までは昼休みとなる。僕は、「3時間あるのか、日陰で昼寝でもしようかな・・・。」と、思っていたらニルマル・ヒルダイには、

「ボランティアの人間は、昼休み時間中に施設に留まってはいけない。」

という、少し変わった決まりがあったので(その理由は最後までわからなかった。)、それをするのはあきらめた。

僕等は午後の3時まで、どこかで時間を潰さないといけないのだが、3時間というのは中途半端な時間である。宿に戻って休憩しても構わないのだが、宿までは片道30分以上かかるし、何より交通費が自腹なのでデメリットの方が多い。そういうわけで僕は数人のボランティアと一緒に大通りまで出て、運良く見つけた中華料理店に入り、ジュースを飲みながら涼んでいた。

そして3時に施設に戻り、午後の仕事を開始する。仕事の内容は午前中と全く同じである。違うのは仕事の順番だけだ。午前中の仕事は配膳から始めてそれから洗濯になるが、午後の仕事は洗濯から始まりそれから配膳になる。

日本人の感覚からすると、

「午後に洗濯?すぐ夕方になっちゃうから、乾かないだろう?」

 という心配をしてしまうところだが、インドの日差しはかなり強烈だから、そんな心配をする必要はないのだ。

乾くかどうかの心配はいらないのだが、それにしてもこの分量には改めて驚かされる。なにせ午前中に数人がかりで3時間も費やしたというのに、それでも半分しか洗濯できなかったのだから。やはり100人分というのは、半端な物量じゃない。おかげで、まだ初日の途中だというのに、僕の両手は既に皮が剥けてしまってボロボロの状態だった。

今日は初日ということもあって、僕は一番簡単な「絞る」という作業をメインにこなしていた。シャツやパンツならまだ楽なのだが、シーツや分厚い毛布を延々と絞り続けるのはかなりハードな作業だ。そのせいで僕の両手は皮が剥けてしまった訳だが、痛む両手で更に作業を続けていくのは、当然のことながらかなり辛かった。このときばかりはさすがの僕も「脱水機能」の付いている洗濯機を使えるマトモな生活が羨ましく思えた。

やがてどうにか洗濯もやりとげた夕方5時過ぎ、再び患者に食事を配膳する。そして食事の時間が過ぎ、その食器を洗ってしまうと、ボランティアの仕事も終了する。全ての仕事を終えて施設を出たときに腕時計を見ると、時刻は6時になっていた。長い、長い一日だった。



その日は帰る途中に屋台で夕食を済ませ、宿でシャワーを浴びるとすぐにベッドに入った。心も身体もかなり疲れているのが自分でもよくわかったからだ。今日僕がボランティアのために費やした時間は朝8時から夕方6時までの10時間と結構長いが、休憩時間を考慮すれば実際に働いていたのは7時間だけである。僕は日本で会社員をしていた頃は残業で1日14時間くらい働いたこともあったし、またそれを苦とも思っていなかったから、これくらいのことでヘトヘトになってしまう自分が信じられなかった。きっと初日で緊張しながら作業していたせいだろう。

ベッドの中で僕は
「明日に疲れ持ち越さないためにも、さっさと寝てしまおう。」

と、思っていた。でも頭でそう思っても、実際には僕はなかなか寝付くことができなかった。その理由がボロボロに剥けてしまった両手がヒリヒリと痛むからなのか、それとも虚ろな表情で横たわる患者達の姿が脳裏から離れなかったせいなのか、僕には判断がつかなかった。

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