「笑えない地図」
〜 ボスニア・ヘルツェゴビナ サラエボ 〜

世の中にはいろいろな種類の交通標識があるのだろうけど

「これより先はイタリア軍の管轄」

 そんなメッセージが書き込まれた標識が街角に立っている国は、ボスニア・ヘルツェゴビナを除けば、それほど多くはないはずだ。少なくとも僕は今までに旅した国で、そのような標識を見たことはない。

僕がその標識を目にしたのは、この国の首都サラエボに滞在しているときのことだ。サラエボは世界の注目を大きく集めたことが過去に3度ある。最初は1914年、オーストリア皇太子夫妻がセルビア人青年によって暗殺され、第一次世界大戦のきっかけになった『サラエボ事件』。そして2度目は1984年の『サラエボ冬季オリンピック』である。

最初のサラエボ事件については、もちろん僕はそのときまだ生まれていなかったので、世界史の教科書以上に詳しい知識を持ってはいない。2度目のサラエボ・オリンピックについては、その当時僕は既に生まれていたけれど、まだ幼かったせいだろうオリンピックの記憶はほとんど僕の頭に残っていない。

そうなると僕が一番強く覚えているサラエボのイメージというのは、やはりサラエボが3度目に世界の注目を集めてしまうことになった、『ボスニア紛争』ということになる。1992年に起きたこの内戦でサラエボは終始セルビア軍に包囲され続けたのだが、戦場となってしまった市内を捉えた映像は世界にも流れた。その映像は僕もテレビで見たし、今もまだよく覚えている。なにしろ内戦終結からまだ10年も経っていないのだから。

内戦は結局20万人もの死者を出すという過程を経て1995年に終結したが、その後のサラエボの治安維持はNATO軍を中心とした多国籍部隊に委ねられている。だからこそあのような標識が今も市内に存在しているわけで、街を歩けば実際にジープで市内を巡回する外国人兵士を時々目にすることもある。

それから多国籍部隊のジープだけでなく、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のクルマもよく見かける。ボスニア紛争では20万人の死者以外に200万人の難民・避難民が出たというから、国際的な救済機関が常駐するのは当然といえば当然のことだけど、「これより先はイタリア軍の管轄」と書かれた標識と同様に、ヨーロッパでUNHCRのクルマが活躍しているのも、やはりこの国ぐらいであろう。

しかしそういった多国籍部隊や国連の協力のおかげなのだろうか、サラエボの治安についてはほとんど何も問題がない。内戦後にボスニア・ヘルツェゴビナの領土はサラエボも含めてセルビア人地区とクロアチア人・ムスリム人地区に二分されてしまったが、現在その両者の間で争いが行われることはない。

もちろん同じ国民同士が民族が違うというだけで、互いに互いを排除しようとして殺しあったわだかまりが、そう簡単に消え去るものではないだろうが、少なくとも相手に対して武力や暴力を駆使しようというような直接的な危険は、もう完全に無くなったように僕には見える。むしろ危険は道路とか建物といった、街のインフラ面に残されているようだ。

例えば、ボスニア・ヘルツェゴビナには未だに地雷が撤去されていない地域が多く残っていて、サラエボも例外ではない。街の中心部から少し外れると、「MINE!(地雷に注意!)」と書かれた警告を見かけることだってある。

それから内戦では街の多くの建物が全壊したり半壊したりしたが、それらのなかには停戦後も手をつけられないまま放置されているものも多い。サラエボのメインストリート、『スナイパー通り』を歩いただけでも、そのことはハッキリと認識できる。

そのサラエボのメインストリートには本来、「チトー将軍通り」という正式な呼称があるのだが、内戦中は市民がここを通ると街を包囲しているセルビア兵から無差別に狙撃されたことから、「スナイパー通り」などと呼ばれることになった。この周辺の建物の壁面には一様に銃や大砲の痕があって、なかには子供が潜り込んだら誤って大怪我しそうな建物も未だに手付かずの状態で、危険極まりない。

こういう通りを歩いていると、よく言われるようにサラエボの復興は確かに進んでいるのだろうけど、街を内戦前の状態まで戻そうとするとなると、まだまだ相当な時間が必要なんだろうなと、つくづく感じる。それはもちろんインフラ面だけのことを言っているわけではない。インフラ面だけを再整備するだけなら、すぐには無理だとしても、かといってそれほど長い時間も必要としないと思う。しかしインフラ整備のような「表層的な復興」だけではなく、内戦によって国外へ出るしかなかった難民がサラエボに帰り、この街で職を得て以前の生活を取り戻すというような「本当の復興」となると、やはりそれは簡単ではないなと思わざるを得ない。街を歩いていると、よくそう思う。

具体的に言うと、スナイパー通りに限らずサラエボの街のどこを歩いていてもそうなのだが、なんとなく「街がひっそりとしている」ように感じられるのである。サラエボを(あるいはボスニア・ヘルツェゴビナを)出ていった市民のうち、どれくらいの割合がこの街に戻ってきているのか僕にはわからないけど、人口が少なくて「さびれた印象」というのを拭いきれない。

あるいは僕にそう感じさせたのはサラエボがいつもどんよりとした天候だったり、入国前に「内戦があった国」というマイナス・イメージを強く持ちすぎていたせいもあるかもしれない。しかしそれを差し引いたとしても、この街がいまだ内戦の影響を残しているのは事実だし、オリンピックを開催できたような「活気ある街」に戻るには、やはりまだまだ時間がかかるような気がする。

だから僕はこの街を歩いていても、楽しいと感じることは少なかった。ベオグラードのときと違って僕はサラエボの地図を持っていたので、街歩きをするのに不自由することはなかったのだが、「さあ、どこに行こうか!」と思って地図を開いてみても、心沈むことのほうが多かった。でもその原因はサラエボの街にあったというよりは、どちらかと言えばそのとき僕が使っていた地図のせいだったというほうが正しいかもしれない。



僕がそのとき使っていたサラエボの地図というのは、いわゆる「土産物の地図」だった。しかしその地図はよく観光地で売られているような、ホテルやレストランの場所とかオススメの見所を紹介している地図ではない。おまけにその土産物の地図は土産物なのに、土産物屋では売られていないという、かなり奇妙な地図だった。

僕にその地図について教えてくれたのは、イスタンブールの宿で知り合った日本人旅行者である。彼は卒業旅行でヨーロッパを旅行していた大学四年生だったのだが、僕がこれから東欧を進むことになると話すと、親切にも旧ユーゴ地域についての情報をいろいろと提供してくれた。そしてそのなかに

「サバイバル・マップ」

 についての情報も含まれていた。

それは内戦中にセルビア軍に包囲されたサラエボの風景を、「手書き」で描いた地図だった。空には爆撃機、地上には街を取り囲む戦車や大砲から狙撃兵に狙われ逃げ惑う市民まで、悲惨な状況がかなり詳しく描写されている。僕がその珍しい地図を購入したのは、サラエボのとある書店だった。最初は幾つか土産物屋をあたってみたのだが、それらの店ではどうしてもみつけることができなかったのだ。

でも僕はイスタンブールでこの地図について教えてくれた大学生から

「スーヴェニア・ショップよりは、書店のほうが手に入る可能性は高い。」

 とアドヴァイスを受けていたので、それに従ってなんとか購入することができた。値段は1枚10マルカ(約650円)だった。この地図は発行部数がそれほど多くないようで、運が悪いとサラエボのどこを廻っても品切れしている時期もあるらしい。そういう意味では僕はラッキーだったと言えなくもない。

この地図を見ていると、ついその悲惨な描写ばかりに目を奪われてしまうのだが、裏返してみるとそこがサラエボの様々なスポットについて書かれた英語のテキストで埋め尽くされているのに気づく。その項目はあまりにも多いのだが、そのなかから幾つかあげて僕なりに訳してみると


「 『鉄道駅』 ― 長い間、サラエボ駅はバルカン半島で最も美しい駅のひとつであるとされていた。しかしそれが今では最も破壊された駅へと変わっている。サラエボの住民は今でも、女子供を乗せた護送車両が街から出て行く光景を覚えている。 」

「 『公園』 ― サラエボ公園は市民が木材を手に入れる場所となった。公園の木々は市場でカットされて売られていったが、その価格は天気予報によって変化した。しまいには公園のベンチでさえ、ストーブの燃料となった。 」

「 『市場』 ― 1894年に建てられた屋内市場は、肉や野菜を売る場所というよりはむしろ劇場のようだと、しばしば説明されてきた。セルビア軍による包囲攻撃が続く間、青空市場に比べてより安全なこの場所で店と客は売り買いをしていたのだが、虐殺はこの場所でも起こった。1995年8月28日の装甲車による攻撃で41人が死亡し、85人が負傷したのだ。 」


どの場所についてのテキストも、読めば読むほど気が滅入っていく内容だった。誰がどのような目的でこの地図を製作したのかわからないが、もし「内戦の悲惨さを伝えるために」それを行ったとするならば、少なくとも僕に対しては充分にその効果はあったと思う。ただ「サバイバル・マップ」という名称だけはどうにもシニカルすぎて、僕には全然笑えなかったけど・・・。


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