「空爆ポストカード」
〜 セルビア・モンテネグロ ベオグラード 〜

ヨハン・シュトラウス2世がワルツ・『美しく青きドナウ』を作曲したは、1867年のことである。そしてその題材となったのはもちろんドナウ川なのだが、実際にドナウの川辺を歩いてみると、曲と風景の間に存在するイメージの隔たりの大きさに戸惑うことになる。シュトラウスが生活していたウィーンを流れるドナウ川についてはよく知らないが、少なくとも冬のベオグラードを流れるドナウ川については、ダンスを踊るには空を覆う雪雲のせいで暗すぎたし、観光するには川から吹きつける風が寒すぎるように思えた。そうなると外国人旅行者としてはさっさとドナウ川観光をあきらめてベオグラードの他の見所を探すべきところなのだが、残念ながらその作業はそのときの僕にとって、それほど簡単なことではなかった。

それというのもガイドブックにベオグラードの地図が掲載されていなかったからである。



僕とT沢クンはセルビア・モンテネグロの首都であるベオグラードにやってきたのだが、悲しいことに僕等はこの国の情報をほとんど何も持っていなかった。もちろん事前に情報が無くても旅はできる。いきあたりばったりで現地に入ったとしても、そこに住む人達の親切にすがれば、ホテルやバスの情報を手に入れることはさほど難しいことではない。

しかしそれが宿泊施設や交通機関といった「ユースフル・インフォメーション」ではなく、「街歩きのための情報」となると、やはり一番役に立つのはガイドブックである。そこには観光スポットを紹介する情報が多く並べられているし、たとえその情報を利用しなかったとしても、掲載されている地図を見ながら自分なりに街を歩くこともできるからだ。

だからこの地域のガイドブックを持っていなかった僕等はソフィアに滞在しているとき、ベオグラードに行っても困らないように、そのとき一緒だったI津クンが所持していたガイドブックを見せてもらっていた。しかしながら海外旅行用のガイドブックではおそらく日本で最大のシェアを持つと思われる出版社が発行していた、「中欧」というタイトルのガイドブックには、何故かベオグラードの地図が掲載されていなかった。

このガイドブックはポーランドやハンガリー、あるいはルーマニアやブルガリアといった旧社会主義国十数カ国の情報を集めているのだが、どの国のページを見ても首都の地図は必ず掲載されている。チェコやスロバキアといったできたばかりの国々についても、クロアチアやスロヴェニアといった旧ユーゴ圏の国々にしても、首都の地図は必ず掲載されている。なかには首都以外の街の地図が掲載されている国だってある。しかし理由はわからないがセルビア・モンテネグロに限って言えば、ベオグラードの地図を掲載していないのである。

これはちょっと理解できないことだった。なぜなら地方の小さな町や村ならともかく、ベオグラードはセルビア・モンテネグロの首都である。そして首都というのは外国人旅行者にとってもっとも訪れる可能性が高い都市であるはずだ。それなのに首都の地図を掲載しないなんて、いくらなんでもあんまりである。これでは街を歩くのにとても不便じゃないか ― 僕がそう言うとI津クンは

「きっと空爆で街が破壊されちゃって、出版社にある地図が役に立たないんだよ。」

 僕に向かってそう答えた。そしてその発言はまるっきり間違いとは言い切れないことを、僕はベオグラードで知ることになったのだった。



セルビア共和国全域がコソヴォ紛争の制裁としてアメリカ主導のNATO(北大西洋条約機構)軍によって空爆を受けたのは1999年、まだ記憶に新しい。実際、街を歩くと78日間に及んだ空爆による被害はあちらこちらで目に入ってくる。街の中心部にもかかわらず、爆撃で破壊された建物が未だに瓦礫の山として放置されているのを見たときは、正直かなり度肝を抜かれた。何故ならそんな光景を目にしたのは、僕の人生で初めてのことだったから。

そんな街の光景に驚いた僕は、ユーゴ空爆に関してもっと詳しい知識を得たいと思い、インターネットで信頼できる資料を探してみることにした(言うのも恥ずかしいが、僕はそれまでユーゴ空爆に関する詳細な知識をあまり持っていなかった)。すると検索にかかる資料は、「空爆による死傷者の4割が子供だった」とか、「空爆で3万発以上の劣化ウラン弾が使用された」とか、かなり非人道的な情報を提示する。

もともとこの空爆はコソヴォで起きたアルバニア系住民に対する『非人道的な』虐殺を非難して行われたものだったが、その『非人道的な』行為を止めさせるために行われた空爆自体が『非人道的な』だったとすれば、「救いも何もあったもんじゃないな」 と、思わずにはいられない。

それから僕が驚いたのはNATO諸国の資本流入である。戦争が終結してから数年しか経っていないのに、(例えば)マクドナルドのような、(例えば)アメリカの企業が住民の反発も受けずに商売をしている事実に、僕はなんだが不思議な気持ちを覚えた。ベオグラードの住民が

「戦争は戦争。経済は経済。」

 と割り切って考えているのか、あるいは

経済というものは、住民の間に「同胞を殺した国の企業なんて受け入れたくない」という想いがあったとしても、そういった人々の思想とは全く関係なしに動いていくものなのか、東京大空襲や戦後の経済復興という経験を持ったことがない僕には、初めはなかなか上手く読みきれなかった。



しかしそれがなんとなくわかるようになったのは、「空爆ポストカード」のおかげだった。僕は地図が無かったせいで、迷子にならないように宿からそれほど離れていないエリアをぐるぐる歩き廻ることしかできなかったのだが、そんなことをしているとあるとき路上でちょっと珍しい絵葉書を売っている男に会ったのだ。

その男が売っている絵葉書には、NATO軍機がベオグラードに爆弾を落としていくショッキングな写真が印刷されてあり、またその写真には

「What reason?(どんな理由でこんな事を?)」

 という一文が添えられていた。僕は時々旅先から日本にいる知人にエア・メールを送るので、今までに訪れた国で様々な絵葉書を購入してきたが、こんなに心沈むポストカードを見たのは初めてだった。ユーゴ空爆という、自分達に降りかかった悲劇を材料にして商売しようなんて、僕にはちょっと思いつかない。もしかしたらそこには外国人観光客に対して空爆の悲惨さを訴えようという意思が込められているのかもしれないが、 

そうだとしてもセルビア人の持つブラック・ユーモア的な商売のセンスには思わず感服してしまう。ちなみに値段は1枚20ディナール、日本円に換算して約40円というところなのだが、絵葉書はこの爆撃風景の1種類ではなく、他にもいろんな写真を印刷したものがあった。例えば

「78 nights in Belgrade」 (ベオグラードの78夜)

 という文が添えられた絵葉書には、飛来したNATOの爆撃機に対空砲火で反撃するベオグラード市の夜景を撮影した写真が印刷されてあった。また、

「”PLAYGROUND” Designed by NATO」 (NATOがデザインした遊び場)

 という絵葉書には爆撃で破壊された建物で子供達が遊ぶ光景が、

「NATO boms against the freedom of information」 (情報の自由に対するNATOの爆撃)

 という絵葉書には爆撃で炎上したセルビア放送局の写真が、それぞれ印刷されていた。絵葉書の全てを挙げるとキリがないのだが、いずれにしてもどれこれも悲惨な写真ばかりである。そしてどの絵葉書にもご丁寧に、「これはセルビアで印刷されたものです」と、英語で注釈がついていた。どうやらセルビア人というのは転んでもタダでは起きない性格のようである。こんなんだと数年前の敵国がベオグラードで商売したとしても、それで自分達にも利益が出るなら構わないと思っているのかもしれない。あくまで僕の勝手な想像だけど。

ちなみにそれらのなかで僕が一番興味を持ったのは、爆撃を受けたとある建物の写真が印刷された絵葉書だった。そこには

「The Chinese Embassy ・・・ Why?」 (中国大使館が・・・なぜ?)

 という一文が添えられてあった。



それは爆撃によって半壊した、『中国大使館』の写真を印刷した絵葉書だった。コソヴォ紛争への制裁としてアメリカ主導のNATO軍はベオグラードを空爆したが、その際に何故か現地の中国大使館が爆撃を受け、死者も出た。アメリカ政府はこれを「誤爆」と発表したが、「実はあえて狙ったもの」という説も出て、これをきっかけに中国では反米暴動が起こったのは有名なハナシだ。

僕はその絵葉書を見たとき、その場所を写真ではなく実際に自分の眼で見ておくべきだと直感した。理由はわからないが、そうしておいたほうが良いと感じたのだ。どうせ地図も無くて街歩きも思うようにできていなかったし、他に特に行きたいところも無かった。僕はすぐに行動に移った。

僕はまず宿の近くで見つけたツーリスト・インフォメーションに行き、そこで中国大使館の場所を教えてもらえるよう頼んだ。「現・中国大使館」ではなく「旧・中国大使館」に行きたいと何度も念を押し、おおまかな住所とそこに至る道順を教えてもらい、それを手帳にメモした。それからついでに「もしベオグラードについての無料の地図があれば、いただけませんか?」と尋ねてみたが、残念ながらこちらは断られた。

ツーリスト・インフォメーションの係員がくれた情報によれば、古い中国大使館は僕等が滞在している旧市街ではなく、サヴァ川を挟んだ西の新市街にあるという。そこまで行くにはバスを使えば便利なのだが、間の悪いことにその日は日曜日でバスの本数は少ないとのことなので、歩いていくことにした。

それから僕は旧市街から約3キロメートル、時間にして1時間ほど歩く。雪道を延々と歩くのはけっこうハードだったが、幸いなことに一本道だったので、地図がなくても道に迷うことはなかった。もちろん目当ての建物も、ちゃんと発見することができた。

新市街にある中国大使館は傷つきながらも、まだ倒れずになんとか持ちこたえていた。敷地内に入ることはできず、外から眺めることしかできなかったが、それでも衝撃のためにひび割れた外壁、爆風のために吹き飛ばされた窓などを見ていると、爆撃が死者を出すほどの激しさを持って行われたであろうということは、あまり軍事に全く詳しくない僕にも簡単に理解することができた。

反対に僕に理解できなかった事としては、この旧大使館の存在理由があった。現在、中国大使館は既に新しい場所に移され、業務を再開しているという。それならばこの旧大使館は不要のはずである。土地はまだしも、少なくともこの半壊した建物の流用は不可能だ。しかし現実として空爆から4年を経ても、この旧大使館は取り壊されることもなく、その無残な姿をさらし続けている。

「どうして中国政府はこの大使館をいつまでも放置しているのか?」

 僕にはその意図がわからなかった。中国政府はここを訪れる人々に戦争の悲惨さを伝えようとして、あえてそのまま放置しているのだろうか?しかしこのような場所を訪れる人間なんて、ジャーナリストを除けばそれほど多くいるとは僕には思えなかった。外国人観光客だって心沈む場所よりは、もっと楽しいところに行きたいだろう。僕は他の理由を考えてみることにした。そして思いついたのが、ひょっとしたらこれは

「アメリカに対するあてつけなのでは?」

 という予想だった。このユーゴ空爆は国連の審議を通さずにNATOの独断で実行された。もし審議にかけるとロシア・中国の反対が予想され、決議にいたるのは難しいとアメリカが考えたからだと、インターネットで見つけた資料にはあった。ひょっとしたら中国は旧大使館をアメリカを非難するための「材料」として残したままにしているのかもしれない。この予想は少々深読みしすぎていると自分でも思わないでもないが、でももしその予想が当たっていたら、きっと中国人もセルビア人に負けず劣らず、「転んでもタダでは起きない」性格に違いない。やられたことを武器にして、そこから何かを得ようとするのだから。

もはや誰にも使われることのない大使館の敷地内で、赤い中国の国旗が風になびくのを眺めながら、僕はそんなふうに考えていた。


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