「空白の行動予定表」
〜 中国 上海 〜

黄浦江から程近い「浦江飯店」という宿にチェックインした僕は、6人部屋ドミトリーのベッドに横になって白い天井を見続けていた。別に天井を見つめるのが好きなわけじゃない。ベッドで横になりながら、今日これから何をしようかと計画を立てるつもりだったのだ。ところがいざ何をしようかと考え始めると、頭の中には何も浮かんでこなかった。日本では宿の予約なんてしてこなかったけれど、泊まる所はすぐに見つかったし、両替も入国の際に既に済ませていた。それらの事を済ませてしまうと、すぐにやらなければならないことなんて何もなかったのだ。実際のところ。

それは僕にとって本当に久しぶりの感覚だった。何故なら日本にいた頃は、「今日は何をしようか」と考える必要なんてなかったからだ。その日にやらなければならない仕事は何日も前から決まっていたし、ひとつの仕事が終わったとしても、また別の仕事が僕を待ち構えていた。

しかし今の僕は、そのときとは全く正反対の状況にいる。それは僕が会社を退職したからだった。

 ― 1ヶ月前に。

今からちょうど2ヶ月前に、僕はそれまで勤めていた会社を一ヵ月後に辞めようと決意した。すると直属の上長は急にそんな事を言い出した僕に対して、留意するように促してきた。また同僚のうちの一人は

「転職先を決めてから辞めても遅くはないんじゃないのかな。」

 と、忠告してくれた。どうやらその同僚は僕がもっと良い仕事に就こうとして今の会社を辞めると思いこんでいたらしいのだが、そんな彼に僕が

「再就職先なんて決めていないよ。とりあえず辞めることにしたんだ。」

 と、言ったものだから、心配して「次の仕事をみつけてから辞めるように」忠告してくれたのだった。上司の心遣いも同僚の言葉も僕にはとても温いものだった。しかし、それでも結局のところ僕はそのまま会社を辞めた。ほとんど悩むこともせずに。

そして退職後に僕は就職活動をしなかった。転職するために会社を辞めたわけではないからだ。再就職活動のかわりに僕は銀行へ行ってトラベラーズ・チェックを組み、アウトドアショップへ行って今後の自分にとって必要になると思われる様々な品を購入した。ビザ用の写真を撮り、中国へ渡るチケットを手配した。会社に残っている人間が今の僕の行動を見たら、きっと首をかしげるに違いないだろうなと、まるで他人事のように僕は想像していた。

ようするに、僕は旅に出るために会社を辞めたのだった。

それから幾つかあった他の用事や約束を慌しく済ませた後、僕は船に乗り込んで日本を発った。退職してから約一月が経過していた。そんなふうにして僕は今、旅のスタート地点である中国の上海にいるのだ。

ベッドで天井を見続けるのにも飽きた頃、僕は計画を立てるのをあきらめた。

「無理に何かをする必要がどこにあるんだろう?」

せっかく仕事を辞めて日本を出てきたんだ。スケジュールを組んで行動する必要なんて何処にも無いはずだ。そう思うと不思議と頭の中に漂っていた霧が晴れていくような気がした。そして「よし、今日は何もしない!」と、決めたのだが、不思議なことに決めた矢先にお腹のほうが僕に「食事をするように」要求してきた。よく考えてみれば今日は朝食をとってからは、まだ何も口にしていない。それから僕はいとも簡単に前言撤回して、食事をするために外出することにした。

僕は部屋を出て、宿の近くにあるそれほど高くなさそうに思える食堂に入った。当然のことだが店には中国語で書かれた「菜単(メニュー)」しかなかった。中国に来たのは今回が初めてだったので、書かれている簡体字からはどんな料理なのかうまく想像できない。それで日本でも食べたことのある「回鍋肉(ホイコーロー)」を無難に選んだ。

食後はお腹も満足して店を出た僕だったが、直接宿には帰らず、夜の上海を歩いてみることにした。ふと、なんとなく散歩したくなったのだ。宿の部屋では今日は何もしないと決めたはずだったのに、一度動き出すとまるで何かの流れに乗ったかのように自分の行動も流れていく。それが一人旅ならではの自然ななりゆきなのかもしれない。そしてついでに僕は大通りを行く人々の流れにも乗っかってみることにした。そんなふうにして歩いていると、いつしか僕は有名な上海バンド(外灘)に出ていた。

バンドの遊歩道は、おそろいの帽子をかぶった中国人ツアー客、大騒ぎしている大学生風の地元の男達、夜景を楽しむ若いカップルであふれていた。欧米人観光客もちらほら見かけた。もうすぐ国慶節(日本のGWような連休)が始まるので、普段よりも賑わっているのかもしれない。おかげで一人で来ているのにもかかわらず、そのことを僕は特別寂しいとも感じなかった。

人の波をかきわけて川岸へ出ると、ライトアップされた浦東新区の光景が眼に入ってくる。黄浦江には何隻かの遊覧船が浮かんでいて、川面をゆっくりと進んでいた。川から吹いてくる夜風がTシャツ1枚の上半身にあたると、とても気持ちが良い。僕は川の流れを眺めながら、これから始まる自分の旅について考えていた。

僕の旅がいつ、何処までのものなのかは自分でも上手く想像できない。でもそれが1ヶ月や2ヶ月で終わるような旅じゃないということだけは、なんとなくわかっていた。

この先自分がどんな旅をするのか全く決まってないというのは少しばかり不安だったけれども、またそれと同時に何か期待させられるものもあった。

今の僕には「行動予定」がない。もう「月間行為計画」を提出する必要もなければ、「年間予算」を達成する義務もないのと同じように。

それでかまわない。旅はまだ始まったばかりなんだ。

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