ドドマはタンザニア連合共和国の、法律上の首都である。そしてこの「法律上の」という修辞はタンザニアにおけるドドマという街の立場を、実に的確に表現していると思う。なぜなら政府機関も経済の中心も未だかつての首都であり、この国の最大都市でもあるダルエスサラームに残されていて、ドドマが果たしている首都の役割というものは、ほとんど無いも同然だからである。

実際ドドマに来てみればよくわかるのだが、この街には本当に何も無い。唯一首都らしいモノといえば現大統領ベンジャミン・ムカパ率いるCCM(タンザニア革命党)の本部があるくらいだ。

遷都してから既に30年以上も経っているのに、何故ドドマに首都としての役割が与えられないのか、僕にはわからない。頭を使って熟考すれば、あるいはわかるのかもしれないが、残念ながらその時の僕にそんな余裕は無かった。何故なら僕には他にも頭を悩ませるべきことを抱えていたからである。

僕が頭を悩ませていること、それは「歯痛」であった。原因は全くわからないが奥歯がズキズキ痛むのだ。その歯痛のせいで特に困るのが食事のときだった。この旅では魚よりも肉を食べる機会が断然多く、おまけにアフリカの肉というのがこれまたどういうわけか異常に硬くて、噛み切るときは奥歯の痛みで失神するんじゃないかと思うぐらいである。

ちなみにこの歯痛は今に始まったことではない。最初に歯が痛み出したのは確かケニアにいた頃である。でもその当時の僕はこれをそれほど深刻なものとは捉えなかった。確かに痛いことは痛いけれども、丁寧に歯磨きを続けていればそのうち自然に治るだろうと、軽く考えていたのだ。しかし現実にはそうはならなかった。ケニアからウガンダ、ルワンダ、タンザニアと旅を続けてきても、事態はいっこうに好転しない。好転するどころか最近では悪化しているような気さえする。

それで僕はタボラに滞在しているときに、例のマイゲさんに自分の歯痛について相談してみた。彼はアフリカでは珍しいくらいの高等教育を受けた人物だったし、アフリカで患った病気はやはりアフリカ人に相談するのが一番だろうと思ったからだ。そしてマイゲさんに歯痛を相談したところ彼は

「病院に行ったほうがいい」

 と、実に的確なアドヴァイスを僕に与えてくれた。ただあまりに的確すぎて僕には

「それはそうだけど・・・。」

 としか答えることしかできなかったけど。



マイゲさんは歯が痛いのなら歯医者へ行けばいいと、僕に勧めた。もちろんそれが一番だってことは僕にもよくわかっている。でもそれをしたくないから、僕はわざわざマイゲさんに相談したのである。ちなみに僕が歯医者に行きたくないのは、当然のことながら(こんなふうに強調するのも情けないが)、やはり費用の問題からだった。

僕は今回の旅のために、あらかじめ日本で海外旅行保険に加入してきた。しかし長期の海外旅行保険に加入した経験を持っている人間なら知っていることだが、残念ながら虫歯の治療に海外旅行保険は適用されない。だからもし歯医者へ行ったら僕は費用を自分で負担することになる。

しかしながらアフリカ縦断の旅はまだ半分くらいしか進んでいない。この旅ですれ違ったバックパッカーによれば、アフリカの物価は南下すればするほどに上がっていくという。それを考えると今のところは旅の資金をあまり切り崩したくはない。だからできることなら病院には行かずに歯痛を治したいのだ。そう僕がマイゲさんに言うと

「もし病院に行くのが嫌なのなら、『ムガンガ』のところに行きなさい。」

 と、僕に答えた。

僕がムガンガという言葉を聞いたのは、そのときが初めてだった。



マイゲさんによればムガンガというのは言ってみれば薬剤師のような職業とのこと。タンザニアでこの職業に就いている人間のほとんどはマサイ族で、たいていの場合は路上に簡単な露店を出して、商売をしているという。

その彼等の露店は見てすぐにムガンガのそれとわかる。実際、ドドマに来て歯の痛みに耐えられなくなり、ムガンガを探そうとしたところ、僕はすぐに彼等の店を見つけることができた。なぜなら彼等の露店はすごく特徴的なのだ。彼等の露店には彼等が取り扱っている薬名をスワヒリ語で記載した看板があり、また多種多様な薬の材料がビンに詰められ、置かれていた。ムガンガの店以外に間違えようが無い。

ちなみにマイゲさんの説明によれば、調合に使われている材料は、全て昔から自然界にあるもの ― ようするにいわゆる生薬で、そこから作られる薬というのは、日本ならばツムラとかカネボウなどが販売している漢方薬と同じようなものである。

僕はムガンガの店を見つけると、歯の薬を調合できるかどうか尋ねてみることにした。初めは言葉が心配だったが、話してみると英語が完璧に通用することがわかった。僕が見つけた露店にいたムガンガ達(その店には3人のムガンガがいた)はタンザニア北部のアルーシャ地方にあるマサイの村から出てきたそうなのだが、都会に住むマサイは部族の言葉だけでなく、スワヒリ語や英語もできるのだ。三つの言葉を操れるなんて、うらやましい限りである。

それで肝心の調合のほうなのだが、歯の薬は簡単に作れると、彼等は言う。「DAWA YA MENO」というのがその薬の名前である。ムガンガに説明を求めたところ、DAWAはスワヒリ語で「薬」、MENOは「歯」を意味するのだそうだ。そしてYAは日本語の「〜の」という言葉に当たるので、ようするに僕が希望している薬の名前を日本語に訳すと、「歯の薬」ということになる。そのままと言えばそのままのネーミングだけど。

それから僕等は値段の交渉に入る。ムガンガは最初4600タンザニア・シリングと言ってきたが、僕がゴネているとキリの良い4000タンザニア・シリング、日本円に換算して約400円のところまで値下げしてくれた。しかしそれでもアフリカの物価からするとけっこう高い。安宿1泊分の料金とほぼ同じである。ただこれ以上はどうやってもディスカウントできないと言われたので、僕はその価格で購入することにした。400円の出費は僕にとって大きいが、大切な歯にはかえられないし、歯医者へ行くよりは安いだろうと思ったからだ。

僕がお金を払うと、ムガンガはすぐに薬の調合を始める。ビンから木片とか白い粉とか、とにかくいろんな生薬を取り出し、混ぜ合わせていた。僕はそれらの生薬がいったいどのようなモノなのか確かめたい思いに駆られたが、自分の精神安定のためにやめておくことにした。そして調合が終わり、薬ができあがるとムガンガは僕に薬の説明をした。

「まず普通に歯磨きをする。次にお湯でうがいをする。それからこの薬を歯ブラシにつけ、痛い歯をまた磨く。そして最後にまたお湯でうがいをする。これを1日2回、食後にやるだけだ。どうだ簡単だろう?」

確かに難しいことは何も無さそうだ。僕は薬を受け取り、礼を言って店を後にした。

そして僕は早速その晩から買った薬を使うことにする。しかしそれにしても自分の購入したモノを見ていると、「なんだか薬というよりはニワトリの餌みたいだな」と、つくづく思えてくる。もし日本の歯科医がこれを見たらいったいどんな感想を述べるのだろう?

しかし現実問題として、病院へは行かないと決めた僕が頼りにできるのは、この薬しかないのだ。僕はムガンガを信用することにして、歯ブラシに薬を塗り、痛む箇所を磨いてみる。薬は案の定、いや予想していたよりもはるかにマズかった。

それでも僕は数日の間、我慢して痛む歯を磨き続けた。「良薬口に苦し」という言葉もあるし、なにより僕はこの薬に400円も支払ったのだ。苦いとかマズイというだけで無駄にするわけにはいかない。僕は「これで歯が良くなりますように」と、思いながら1日に2回、歯を磨いていた。



ドドマを発つ日、僕はムガンガの店に行ってみた。特に何か用事があったわけではないが、ムガンガの店がちょうど僕が滞在していた宿からバスターミナルへの途中にあったので、ついでに寄ってみただけだ。ムガンガは僕の姿を見つけると、声をかけてきた。

「歯の調子はどうだい?」

「特に良くはなってないね。かといって悪くもなっていないけど。」
 僕は正直に答えた。

「まあ、そんなにすぐには治らないよ。1週間はかかると思ってくれ。それくらいの分量は渡したはずだから。」

 ムガンガはそう言って僕を励ました。そういえば確かに薬はけっこうな量があった。それにどんな薬だって1日や2日で病気を治せるはずも無い。とりあえずはムガンガのいう事を聞いて、薬を使い続けてみよう。そんなことを考えていると、ムガンガは話題を変えてきた。

「どうだい、今日も何か薬を買っていかないか?」

「うーん、でも今のところ他に特に悪いところは無いから。」

「俺達が作るのは何も病気を治す薬だけじゃないんだよ。他にもいろんな薬を作ってる。君のようなヤングマンにはピッタリの薬もあるんだが、それを使ってみないか?」

「どんな薬?」
 とりあえず僕はハナシだけ聞いてみることにした。

「その薬は『DAWA YA MAPENZI』って言うんだよ。」

 そう言って彼はハナシを進めた。しかしながら薬の名前をスワヒリ語で言われところで、それがどのような種類の薬なのか、僕にわかるはずがない。だから僕はその薬の効用を説明してくれよう、彼に求めた。そして彼は頷き、それから僕に質問をした。

「君にはガールフレンドがいるのかな?」

「・・・いないよ。」
 突然に質問に僕は彼の意図が読めずに一瞬戸惑ったが、正直に答えた。

「ガールフレンドを欲しいとは思わないか?」

「それはまあ、できれば欲しいとは思うけど、でも欲しいからっていつでも手に入るわけじゃないしね。」

「そんな君にうってつけの薬が『DAWA YA MAPENZI』なんだよ。」

「どんなふうにうってつけなの?」
 彼がいったい何を言いたいのかわからない僕は訊き返した。すると

「その薬を使えば君は誰でも自分の好きな女性を恋人にすることができるんだよ。」

 ムガンガの彼は真剣な表情で僕を見ながらそう言ったのだった。そしてその発言を聞いたとき、僕は言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。



DAWA YA MAPENZI ― それはいわゆる『惚れ薬』だった。異性を自分の虜にするという、誰もが一度は憧れたことがある究極のクスリ、彼はその「惚れ薬」を作ってくれるというのだ。彼の説明によれば、このクスリを使えば僕は自分の好きな女性を恋人にできることになる。例えばそれがニコール・キッドマンでも、あるいはジェニファー・アニストンでも誰でもいいけど、とにかく僕は自分の好きな女性とお付き合いすることができるのだ。まさに夢のようなハナシである。

ムガンガは薬の説明を終えると、「どうだ買わないか?」と、訊いてきた。しかしそのときの僕は明らかに動揺していた。それも当然である。未だかつて誰も造りえたことのない夢のクスリが自分の手に入るかもしれないのだ。正常でいられるはずがない。僕はまず自分を落ち着かすことに専念した。そしてそれから僕にはしなければならないことがあった。買う買わない以前の問題として、僕はひとつの重要なポイントについて確認しなければならない。だからそのことについて僕はムガンガに尋ねた。

「それって、本当に効くの?」

「もちろんだ。必ず効くよ。」
 彼は自信ありげに、そう答えた。俺を疑うのか?と、言うような表情だった。

どうやら薬は本物らしい。そして僕はそのムガンガの答えを聞いて気持ちが揺れ動いた。その薬を買いたいという衝動と、「そんなものを使って相手が自分に好意を寄せるように仕組むなんて、アンフェアではないのか?」という、相反する二つの考えが頭の中でせめぎあっていたである。そして僕がそんなふうに悩んでいると、ムガンガは更に畳み掛けてきた。

「もし気に入らないのなら、まだ他にも薬はあるぞ。それは『DAWA YA KUOLEA』っていう薬でね、「DAWA YA MAPENZI」と少し似ているんだが、こっちのほうが効き目が強い。これはな、『好きな人と結婚できる薬』なんだよ。しかもその相手は結婚後にも絶対に浮気をしない。最高の薬だよ。」

 そのムガンガの説明を聞いて僕は思った。愛している女性がいるなら、例えどんな手を使ってもその女性を手に入れるのが男っていうものだ。恋愛のバトルに綺麗も汚いもない。勝った者が正義である。全力を尽くすとはそういうことなのだ。僕は意を決してムガンガに尋ねた。

「薬はいくらするの?」

「恋人の薬は6000シリング、結婚の薬は8000シリングだ。」

 好きな人と結婚できる薬が日本円にして約800円・・・歯の薬の2倍の値段、つまり安宿2泊分に相当する金額である。バックパッカーの僕にとって決して安い金額とは言えない・・・というかハッキリ言って高い。しかしこのクスリの効力を考えれば、その値段も仕方が無いとこだろう。でもおかげで僕は大いに悩むことになってしまった。もしこれが例えば1000シリングだったらすぐに決断できるところだが、ムガンガは「この前、歯の薬を安くしたんだから今日はそのままの値段で買ってくれ。」と、言ってディスカウントに応じようにしない。あるいは僕の物欲しそうな表情を見て、「値引きしなくても売れるだろう」と、思ったのかもしれない。

僕はクスリを買うべきか買わざるべきか、どちらの選択をするか真剣に悩んだ。僕は普段、「旅に必要なモノ以外は購入しない」というスタンスで旅している。それは自分で自分に課した『旅のルール』と言ってもいいかもしれないが、とにかくこれまではそれを守り続けてきた。そして今回もそのルールに則って考えてみると、惚れ薬はどう考えても旅に必要なモノとは思えない。

だがもちろん、他の考え方もある。それはここドドマで旅のルールを破棄するという考え方だ。僕の旅はゲームでもなければ、他人との勝負でもない。ルールを破ったからといって誰かに文句を言われるわけじゃないし、日本に帰国させられるわけでもない。全て自分で好きなようにすればいいのだ。だってもし今ここで決まり事にこだわってクスリを買い逃したりしたら、将来後悔することになるかもしれないのだから。

例えば将来僕はノッティングヒルに小さな本屋を開いて、買い物にきたジュリア・ロバーツと知り合うことがあるかもしれない。あるいはマディソン郡を歩いていて道に迷い、人生に疲れたメリル・ストリープと出会うことがあるかもしれない。そういうときに僕は「ああ、あのときクスリを買っておけばよかった。」と、後悔したくはない。

僕は自分がどうするべきか、よく考えた。旅のルールに固執してクスリをあきらめるか、それとも自分の気持ちに正直になってクスリを購入するかについて、時間の許す限り考えた。それは僕にとってはあまりに難しい選択で、いくら考えても結論は出ないのではないかと思ったりもした。しかしそれでも、結局のところ最後に僕は

「惚れ薬の為に貴重な800円を使うことは、やっぱりできない。」

 という決断に至ったのだった。そして僕はムガンガの勧めを断り、店を後にした。

僕がアフリカ縦断を達成するまでにあとどのくらいかかるのか自分でも全くわからない。旅行保険は一年間分かけてきたけれど、自分の予想を越えて長く旅することだってあり得ないことではない。そしてそこまで旅が長くなると、800円足りないがために野宿をしたり、ご飯が食べられなくなることがあるかもしれないのだ。

それから僕はバスターミナルへ行き、ダルエスサラームへ向けてドドマを発った。そして僕は走るバスの中で今日の自分の行動を振り返っていた。節約のために夢のクスリを買えなかったことは確かに残念だったけれど、でもよくよく考えてみれば今のところ僕には「どうしても結婚したいと思える女性」なんていないのだ。ニコール・キッドマンやジェニファー・アニストンは確かに憧れの女性だけど、あくまでTVや映画で観ただけの存在であり、特に彼女達と結婚したいというわけじゃない。ジュリア・ロバーツやメリル・ストリープにいたっては、既に夫がいるじゃないか。

「まあいいさ。将来どうしても結婚したいと思える女性が自分の前に現れたら、そのときタンザニアに買いにくればいいんだから。」

 そう思い直して、僕はもう後悔しないことに決めたのだった。

それから僕が、『ムガンガ』 ― この言葉がスワヒリ語で「witchdoctor(祈祷師)」を意味するという事実を知るのは、もう少し後のことである。


[ ← BACK ] | INDEX | [ NEXT → ]