「悪いけどカネを貸してくれないかな?」

 エジプトの南端に位置するナセル湖のアスワン・ハイダム港で、スラーカという名前の若いポーランド人バックパッカーからそう頼まれた僕は、ポケットから1ポンド札を2枚出し、彼に手渡す。2枚の紙幣はどちらも長い間エジプト市場を流通してきたようで、そこに印刷されている『アブ・シンベル神殿』はかなり皺だらけになっていた。

「助かるよ。『向こう』に着いたら必ず返すから。エジプトの通貨にはもう用は無いと俺は思っていたから、使い切ってしまったんだよ。でもまさかこんな所で必要になるなんてね。」

 スラーカは僕に向かって、そう弁解した。2ポンド(日本円にして40円)というのは、この港に存在するエジプトのイミグレーション(出入国管理事務所)で支払う「出国税」である。彼はエジプトからの出国の際して、税金の支払いがあることを知らなかったのだ。これから国境を越え続ける旅をしようとするバックパッカーにしては、ちょっと抜けているように僕には思える。

しかしそういう僕も、港ではなく空港から出国する場合にも、同様に2ポンドの出国税を支払わなければならないのかという事については、実を言うと全く知らないし、恐らく今後も知ることはないだろう。何故ならこの港を出たら最後、僕はもうエジプトに戻ってくる予定は無かったから。



地中海沿岸の街、アレキサンドリアから始めたアフリカ大陸南下の旅で、僕がエジプトの次に進む国はスーダンとなった。ほとんど自動的に。エジプトが国境を接するアフリカ大陸の国はリビアとスーダンの2カ国だけしかなく、現在の情勢では外国人旅行者がエジプトからリビアへ陸路で入国するのはほぼ不可能だったから、必然的に選択肢はスーダンに絞られたのである。

そして「飛行機を使わずに」、という条件の下にエジプトからスーダンへ移動するとなると、もっとも一般的な方法は「船」である。エジプトのナセル湖からスーダン北端のワディ・ハルファという街の郊外をを流れるナイル川へ、1週間に1度だけ運行されている定期船を利用するのが、バックパッカーにとって最もポピュラーな移動手段であり、僕等もその方法を選択することにした。

僕等というのは、僕を含めた5人のバックパッカーである。ポーランド人のスラーカ、フィリップという名のフランス人、日本人のM人クンとR輔クン、そして僕の5人。M人クンを除く3人とはアスワンで知り合った。最初に僕とR輔クンがアスワンにある船会社の切符売場で知り合った。そして僕がアスワンで滞在していた宿にスラーカがいて、R輔クンが滞在していた宿にフィリップがいて、皆目的がスーダン行きだというので、アスワンからナセル湖に接するアスワン・ハイダムまで、(節約するために)タクシーに相乗りしようということになったのである。

そして最後にナセル湖の船着場で合流したのが、M人クンだった。僕達が知り合ったのはもちろん偶然だったが、どんな始まり方で仲間になったとしても、仲間がいることは旅するうえでとても心強い。初めての国へ行くときはならばなおさらだ。しかしその心強さに反して、肝心の船に関しては、残念なことにどうにも頼りなさそうなシロモノだった。

船を初めて見た時の僕が持った印象は

「えっ、本当にこの船でスーダンまで行くの?」

 というものだった。別にクルーズで使われるような豪華客船を期待していたわけじゃないけど、それにしてもスケールの小さな、貧相な船だった。多分、他の4人も同じ印象だったと思う。あえて口に出さなくても、彼等の表情を見ているだけでそれがわかった。港の敷地内に入る際に切符の検察があって、そこはとにかく乗船客達が長い行列を作っていて、そんな光景を見た後だっただけになおさら

「こんなに大勢の人間がこれでマトモにスーダンまで行けるのかなあ?」

 という疑わしい気持ちを抱かずにはいられなかったのである。正直なところ。

それから僕等は多くのスーダン、エジプト両国の乗客達と一緒に船に乗り込む。船内はすぐに乗客でいっぱいになった。そんななかで外国人である僕等は明らかに浮いた存在だった。とりあえず僕等は自分達のスペースを確保し、船の出航を待つことにする。

けれども船はなかなか出航しなかった。予定では午後2時出航ということになっているのだが、3時になってもまだ出航しなかった。僕等が船に乗り込んだのは午前10時だったから、もうかれこれ5時間以上経過していることになる。そしてそんな状況にシビレを切らしたかのようにスラーカが言う。

「もういい加減に出発しようぜ。船の操縦ならオレがやるからさ。」

 するとフィリップが面倒くさそうに

「オマエに操縦させるくらいなら、俺は泳いでスーダンまで行くよ。」

 そんなふうに答えた。どちらの発言もジョークには違いなかったが、ジョークにしても非建設的過ぎるように僕には思えた。



結局、船が出港したのは午後4時過ぎだった。これからスケジュールどおりに行けば、船はまず北回帰線を通過し、それから約20時間をかけてナセル湖を南下した後、スーダン領内のナイル川に入って僕達乗船客をその川岸に下ろすことになっている。しかし出航が2時間も遅れたことから考えても、すんなりと船の運行が進むという保証はどこにもない。旅の移動ではトラブルの起きる可能性が常につきまとう。そして僕等がいた客室内に限って言えば、トラブルは既に起こっていた。

そのトラブルとは、殴り合いの喧嘩だった。それも本気の殴り合いである。黒人男性の乗客同士が(もっとも乗客のほとんどが黒人だったけど)、どうやら座席を巡って争っているようだ。僕等がいる客室は、下のランク(2等)の切符を購入した乗客が滞在できる場所で、いわゆる相部屋である。1等の切符だと個室が与えられるのだが、値段の安さから僕等はこの2等を選んだのだった。

この2等部屋の席は自由席だったから、どこの座席を確保するかついては早い者勝ちである(僕等は良い席が取りたかったので、乗船開始時間にすぐ乗り込んだ)。でもそれは逆の言い方をすれば、どこの座席でもかまわないのなら、乗船するのは出航ギリギリでも構わないということになる。だって船会社が定員数よりも多くのチケットを販売するとは考えにくいから。でも実際には、今こうして座席を巡る争いごとが起きている。座席の数は足りているはすなのに。では何故そのようなトラブルが起こるのかというと、全てはその座席と、エジプトから国へ帰ろうとするスーダン人達が船内に持ち込んだ荷物のせいだった。

座席はその背もたれがほぼ直角に近い、木製の長椅子だった。どの長椅子にもそれぞれ五つの座席番号がふられていたが、現実問題としてこの長椅子に5人の大人が座るのは、まず不可能だった。何故かというと、5人の大人が座るには長椅子が短すぎるのである。自分でも妙な日本語表現だと思うけど、事実そうなのである。

それからどの乗客たちも、とても荷物棚に収まりきらないくらいの量の物資を(あまりの量なので、『手荷物』というよりは『物資』というほうが実感として近い。)客室内に持ち込んでいて、そういう物資で占領されてしまっている長椅子もあった。本来は乗客が座るべき場所なのに。

また長椅子だけでなく、通路にも物資は溢れ返っていた。もうあまりにも多過ぎて、足の踏み場も無い状態だった。まるで集団疎開の為の列車に乗っているような感覚である(もちろん、実際に乗ったことは無いけど)。

そんな状況だから、後から乗船してきた乗客達のなかには、チケットを持っているにもかかわらず座席に座ることができなという者が続出した。そして自分が座る席が無いことに納得できない一部の乗客が、先客に対して不満をぶつけているのである(その不満の矛先が僕等に向けられなかったのは幸いだった)。

不満があってもそれを先客に訴えることを選ばなかった乗客達は、皆客室の外へと向かった。デッキである。客室内の密度に息苦しさを感じた僕は一度デッキへと出てみたのだが、そのデッキも客室内と同じように乗客と物資でいっぱいだった。このような状況だと、喧嘩のとばっちりを受けなくて済むだけでも良しとしなければならないのかもしれない。そしてそんなデッキの様子を確認した僕は客室内の席に戻って仲間に言った。

「これじゃあ、客船というよりは貨物船だね。」

 するとスラーカが

「確かに。あとこれで鎖に繋がれていたら、オレ達もう完全に奴隷だな。」

 そんなふうに答えた。なかなかシニカルな性格をしているようである。ポーランド人バックパッカーが皆そういう性格なのかは、僕はよく知らない。ポーランド人のバックパッカーに会ったのは今回が初めてだったから。しかしいずれにしても、スラーカの返答はそれほど的外れなものではなかった。まあ『奴隷船』まではひどくないにしても、もし『難民船』だと言われたら、誰もがその言葉を簡単に信じてしまうような状況だったのである。



しかしたとえどんな状況であったとしても、出航してしまったからにはもう船を下りることはできない。僕達5人は身動き一つ出来ないスシ詰めの長椅子で、この先20時間にわたって窮屈さを耐える決意をしたわけだが、でも出航して数時間も経過すると我慢の限界はあっけなくやってきた。

それで僕等は少しでもスペースを作って窮屈さを緩和させようと、交代で席を立つことにする。席を立った者の行き先は食堂である。実は乗船客には無料で夕食が提供されるのである。たとえそれが2等船室の乗客であっても。僕等はバックパッカーだったから、無料とくればそれを食べない理由はどこにもない。

ただその結果については、かなり残念なものとなった。ひどく粗末な食事だったのである。1等船室の乗客達がどのような食事を提供されたのかについてはわからないけど、少なくとも僕等に出された食事は、普段安食堂の料理ばかり食べているバックパッカーでも、好評価を与えることはかなり難しそうなシロモノだった。まあ、僕等にしても2等席の乗客に無料で提供される料理に、それほど大きな期待をしていたわけじゃないけど。

交代で夕食をとるの終えると、もう他にすべき事は無かった。退屈さと窮屈さを紛らわすために仲間同士で会話をするというのも、この船の悪口を散々言い合った後では、お互いに話し合う話題にも事欠いた。時間はすでに夜遅かったし、あとは寝るだけである。

けれども僕にとって、その「寝る」という作業はそんなに簡単な事ではなかった。座席は木製で固い、背もたれは直角、長椅子同士の間隔も狭くて足を伸ばすこともできない。三重苦である。乗船前から横になれる状態で夜を過ごせるとは、もちろん考えていなかったけれど、でもこの苦しさは僕の想像を超えていた。

かつてユーラシア大陸を陸路で横断していた頃の自分であったなら、恐らくこのような状況でも容易く就寝することができたと思う。しかし今回のアフリカ大陸縦断の旅において、今はまだ旅の1カ国目の終わりにさしかかったところであり、僕の心身はまだ陸路での長旅に順応しきれていなかった。睡眠不足では翌日の行動に支障が出るかもしれないから、何とか眠ることができるようにと自分なりに努力してみたのだが、その結果はあまり芳しいものではなかった。多分、熟睡できないままに朝を迎えることになるのだろう。



翌朝、眠れないながらも、それなりにウトウトしていた(要するに仮眠だ)僕は誰かに身体を揺さぶられているのに気が付いて眼を覚ました。僕を起こしたのはフィリップだった。上手くいけばあと少しでマトモな眠りに落ちていけそうなところまできていたところだったのに、どうしてわざわざ僕を起こしたのかとフィリップに尋ねると、彼は僕の問いには答えずに、客室に付いていた窓をただ指差した。

彼が指差す窓の外へと目を向けると、ナセル湖の西岸が見えた。そしてそこには4体のラメス二世の巨大な像がそびえ立っていて、僕がスラーカに貸した1ポンド紙幣に印刷されている、あの『アブ・シンベル神殿』であることがわかった。

世界遺産アブ・シンベル神殿はエジプトの中で外国人観光客がピラミッドの次に多く訪れる観光地だという。それらの観光客のほとんどはアスワンの街から飛行機などでこの神殿を訪れるそうなのだが、僕に限って言えば、アスワンに何日も滞在していながら、この神殿を観に行く事はついになかった。

その理由はスーダン行きの船から神殿を見ることができるということを僕があらかじめ知っていたから、というわけではなくて、ただ単に神殿見学というものにあまり興味が湧かなかったからにすぎない。

アブ・シンベル神殿が見えたという事実は、僕等乗船客に対して、他のもうひとつの事実を示していた。それはナセル湖の終わりである。エジプトの地図を開いてみると、アブ・シンベル神殿がナセル湖南端の西岸に位置していることがよくわかる。そしてナセル湖が終わるということは、同時にエジプト領が終わることも意味している。そしてそのナセル湖の「向こう」にあるのが、僕等が目指すスーダンだった。


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