アレキサンドリアから首都のカイロへと移動し、この都市で旅の準備を行うことにした。旅が始まってから旅の準備をするなんてちょっとおかしいような気もするけど、半年あるいは一年を越えるような長期間の旅の場合は現地に入ってから準備をするほうがスムーズに運ぶケースが多い。

ひとつ例を挙げるとすると、僕はアフリカ大陸縦断に備えてこのカイロで「メフロキン」と呼ばれる抗マラリア剤の入手を考えていたが、このような特殊な内服薬は日本では処方箋なしに購入することはできないし、また処方箋があったとしても購入できる場所は日本国内でもかなり限られている。

ところがそのメフロキン、実を言うとアフリカ諸国の比較的大きな都市ならば、街の薬局に行って「メフロキンを買いたい」と言うだけで、その場で何の手続きも無しに購入することができるのである。しかも日本で購入するのに比べてかなり割安で。

そのようなわけで僕は幾つかやり残していた旅の準備をアフリカ屈指の大都市であるこのカイロに暫く滞在しながら済ましてしまうことに決めた。メフロキンの購入以外にはアフリカ大陸の情報収集、国際学生証の入手、そして次に滞在する予定のスーダン・ビザの取得である。

まず、ひとつめの情報収集については全く問題が無かった。僕がカイロで滞在していたのはバックパッカー向けの典型的な安宿である。そこには日本人・韓国人・欧米人といった外国人旅行者ばかり宿泊していて、旅の情報交換をするのにはうってつけだったのだ。

「アフリカは地中海沿岸(エジプト・チュニジア・モロッコ)だけ」

 というような旅行者も多かったけど、中には時間をかけてブラック・アフリカをくまなく廻ってきたという旅行者も少なからずいて、僕が頼むと彼等はビザ取得の値段・移動手段や国境越えの方法・オススメの宿についての情報、そしてそれ以外にも 『様々な情報』 を提供してくれた。例えば 『正直屋』 のこととか。僕がまだカイロに到着したばかりの頃、ある日本人旅行者は

「簡単な買い物だったら、 『正直屋』 に行くといいよ。」

 と、アドバイスしてくれた。

「 『正直屋』?」

 僕が繰り返すと

「うん。店の本当の名前は知らないけれど、このあたりに長く滞在する外国人旅行者達がそう呼んでる店があるんだ。そこは外国人の客にも1.5リットルのミネラルウォーターを1.5ポンドで売ってくれるんだよ。」

 と、彼はそう答えた。

 僕も彼から教えてもらって知ったことだが、1.5リットルのミネラルウォーターの価格が1.5ポンドというのは、カイロでの「通常価格」であった。ところがその日本人旅行者が言うには、このあたりには外国人に対してのみ通常の数倍の価格で販売している店が多いのだそうだ。いわゆる二重価格というやつである。外国人というだけで数倍の料金を取ろうとするなんて不条理な気もするが、エジプトでは観光地ではない場所でもこれがまかり通っている。

でも中には、外国人に対しても通常価格で販売してくれる店もあって、カイロに長く滞在する外国人旅行者達はその店のことをいつしか「正直屋」と呼ぶようになっていった。僕はそう名付けた旅行者のネーミング・センスについては残念に思うことしかできなかったが、それはそれとして、まだ旅を始めたばかりで交渉事にも慣れていなかったから、自分でもその店をよく利用した。

日本円にして100円単位の金銭を重要視する情報は万人受けとは言いがたいが、それでも情報には違いなかった。そしてこのようにして僕は自分にとって必要と思われる情報を手に入れていった。ふたつめの国際学生証に関しても、やはり他の旅行者からの情報をもとに行動して、あっさりと手に入れることが出来た。



そして残る準備はスーダン・ビザを取得するだけとなったのだが、これについては少しばかり問題があった。ビザの取得というのは通常の場合大使館に行って取得の申請をするところから始まるのであるが、実を言うとこのスーダン大使館について限っては、ただ訪問しただけでは申請を受け付けてもらえないのである。

では申請を受け付けてもらうためにはどうすればよいのかというと、それは申請の前にまず日本大使館まで足を運んで「 レター 」を発給してもらうことだった。それを手に入れて初めてスーダン・ビザの申請が可能になるのだが、あいにくと在エジプト日本大使館ではレターを即日発給しない。

つまり、まず日本大使館でレターの申請と受領、それからスーダン大使館でビザの申請と受領と、たった1枚のビザのために日を分けて合計4回も大使館に行かねばならないのである。「役所が好き」という人間(そういう人間がいるのかどうかわからないけど)ならまだしも、普通の旅行者にとってはただ日数がかかって面倒なだけである。

それでも何とかレターを入手して、スーダン大使館まで足を運びビザを申請することになったのだが、その大使館の窓口は長蛇の列だった。それも片方だけが。詳しく説明すると、大使館には窓口がふたつあるのだが、それが「女性用」と「男性用」というかたちで分かれているのだ。そして混雑しているのは「男性用」のほうである。

ちなみに窓口をふたつに分けている目的は「女性が優先的にサービスを受けられるように」ということらしいのだが、実を言うとイスラムの国々では役所以外でもこのような場面を目にする機会はたまにある。バスの中の女性のための優先席とか、そういう類のものだ。

イスラム教には女性が守らなければならない慣習が多くあることは世界でもよく知られているけれど、逆に女性が優遇されるケースも少なくないことはそれほど知られていない。僕自身も前回のユーラシアの旅で初めて知ったぐらいだ。

ただ、このスーダン大使館での「窓口では女性を優先させる」というやり方についてはいったいその意図がどういうものなのか、僕にはいまひとつよくわからない。男性に比べて女性の方が体力が少ないから立っている時間を少しでも減らそうということだろうか? それとも単なるレディ・ファーストの精神なのか? そのあたりが上手く把握できないのが悩ましかったのだが、でもそのスーダン大使館ではそんな慣習以上に僕の頭を悩ませることがあったので、とにかく僕は長く連なる男性用の列(並んでいるのはほとんどがエジプト人だった)に並びながら、そのことについて考えてばかりいた。

ちなみに僕を悩ませていたのはビザの取得料金だ。これが実に100米ドルもするのである。いくらなんでも高すぎる。ユーラシア大陸を横断した旅のときにも様々な国のビザを取得したけれど、ドルで3桁にも達する程の高額な料金を支払ったことは一度も無い。パキスタンのビザなんて無料だった。スーダンに限ってどうしてこんなに高いのであろうか?

でもどれだけ悩んだとしても、結局のところ僕はその100ドルという金額を払わないわけにはいかなかった。エジプトからアフリカ大陸の南下を始めるならば、エジプトのすぐ真南にあるスーダンという国を避けて通ることはできない。好むと好まざるとに関わらず、その不条理な金額を支払う以外の選択肢はないのだ。

そう無理矢理に自分を納得させた僕はようやく窓口にたどりつき、申請書を受け取る。申請書にはどこの国でも書かされるお決まりの事項の他に、「あなたの宗教は何ですか?」という、これまた意図の読めない質問があって回答に苦しんだが(無神論者と書いても受理してもらえるのだろうか?)、何とか僕は申請書を完成させて提出した。もしアラビア語で記入しなければならなかったとしたらもうお手上げだったが、英語での記入が許されていたのは救いだった。



そんな合計4回もの各大使館訪問の日々のなか、僕は空いた時間を使ってカイロの街を観光した。7月のカイロは年間でも最も暑い時期だったから、昼間に歩き回るにはかなり苦しいのであるが、でも滞在していた宿にしてもエアコンなんて気の利いたものはなかったので、僕は「どこにいても暑いのなら、宿にこもっているよりは出歩く方がいい。」と、思って観光することにしたのだ。

僕がカイロで観光した場所のうちのひとつは『カイロ動物園』である。ただ、そこがカイロに来た外国人旅行者が訪れるべき場所として適切なのかどうかについては自分でも少々疑問である。

実は僕がここに来たのは、「ピラミッドやスフィンクスに行くよりはマシだろう」という、どちらかといえば消極的な理由からだった。何か希少な動物が飼われているなら、宿にいた他の旅行者を誘って遊びに来てもよかったのだが、残念ながらそういうこともなかったので、僕はひとりで訪れた。

そして動物園内を歩き始めてから少しして僕が感じたのは「かなりショボイ動物園だな」ということである。これはある程度事前に予想していたことでもあったのだけれど、本当にどこの国にもあるような普通の動物園で、わざわざ海外旅行で観光するような場所ではないということを再確認できただけだった。僕は

「どうしてこんなところに来ちゃったんだろう?」

 と、園内に入ってから僅か数十分で既に、ここへ来た自分の選択を後悔し始めていた。それでも、「せっかく入場料を払ったのだから、せめてその分の元は取って帰りたい。」と、バックパッカーらしい考え方で35℃くらいある気温の中を我慢強く歩き廻っていたのだけれど、それに反して檻の中の動物達は暑さのためにやる気がなく、ただゴロゴロと寝転んでいるだけだった。僕だって暑いなか頑張って見学しているのだから、せめてサービス精神のかけらぐらいは見せてほしいのだが。

そんな感じで、まるで勤労意欲のない動物達の写真をカメラに収めながら園内を歩いていたら、一組の若いカップルから声をかけられた。もちろん地元のエジプト人カップルである。こんなところに来る外国人のカップルなんていやしない。カップルどころか一人で来ている外国人だって見かけないのだから・・・なんて事をその時の僕はのん気に思っていた。その10分後には事態が急展開することも全く知らないで。



僕に声をかけてきたのは男性の方だった。彼はカタコトの英語で話しかけてきたのだが、特に何か用事があったわけではないようで、地元の動物園に外国人がいるのが珍しくて声を掛けてみた、というような感じであった。あるいは英会話の練習になると思ったのだろう。彼はTシャツにジーンズという格好で、いかにも学生風に見えたから。

女性の方も学生のように見えたけど、彼女は僕と彼氏が話しているのを聞いているだけだ。でも、外国人が苦手というわけではないようだった。彼女は僕と彼氏の会話をニコニコと笑顔で聞いていたから。外国人とコニュニケーションする経験が少なくて、何を話してよいのかわからないのかもしれない。

それから僕と彼氏が挨拶やら自己紹介やら、ひととおりの世間話が終わったときだった。それまでずっと黙っていた彼女の方が僕に話しかけてきたのである。たどたどしい英語で。そして僕がその彼女の言葉に返事をしようとしたとき、彼女の横に立っていた彼氏が彼女のことを平手打ちしたのである。何の前触れも無く、いきなりである。

それから彼氏は僕にはわからない現地の言葉で(おそらくアラビア語で)、彼女のことを大きな声で罵った。殴られた彼女は地面に倒れたりこそしなかったけれど、痛そうに打たれた頬を手で押さえている(かなりの勢いで打たれたので本当に痛そうだった。)。そして僕は自分の目の前で起きている異常な事態にただただ戸惑っているだけだった。

そしてそんな僕の驚いた様子に気付いた彼氏は「気にするな」というような表情で、僕に対しては笑顔で二言三言発したのだが、その言葉はやはり現地の言葉だったので彼が何を言っているのかは理解できなかったのだが、僕に対しては敵意がないことだけはわかった。

察するに、どうも彼氏は自分の彼女が見ず知らずの男に(僕のことだ)対して彼女自身から声を掛けた事に怒っているように見えた。それがジェラシーなのか、それとも彼女の振る舞いを「はしたない」と判断したからなのかまではわからない。彼女の立場からすれば不条理極まりないことだと思うけど、彼女の方は彼氏に対して殴り返したり、何かを言い返したりはせずに、僕と同じように自分が殴られたことに驚いているような様子だった。

彼氏は僕に対しては友好的な表情をしていたが、僕にはその場の雰囲気がとても気不味いものに感じられた。だから僕は適当な言葉を残してその場を立ち去ることにした。彼女の事は気にはなったが、更にこれ以上殴られることだけはなさそうだった。殴られた彼女に同情して介抱してあげることもできないわけではなかったが、それをしたときに

「オレのオンナと仲良くしやがって、いったいどういうつもりだ!」

 というように彼氏が再度逆上しないとも限らない。そうなってしまったら、彼女の立場はいっそう悪いものになるだろう。自分の親切心で彼女に迷惑をかけてしまうことだけは避けたかった。彼女と僕、双方の安全のために。立ち去る僕を、彼氏は追いかけてきたりはしなかった。そして僕は園内の人込みに紛れながら動物園を後にした。


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